2011年05月25日

火曜印刷4 末弟年雄との日々

もう少し年雄さんにふれておこう。

10歳ほども年の離れた弟を、重信はたいそうかわいがっていた。

年雄さんが学校にあがる前、上の二人の兄弟(行雄、美知子)が学校に行ってしまい淋しかった年雄さんは、よく父の部屋に行って遊んでもらったという。
(父も学生だったはずだが、さぼっていたのだろうか。しばしば朴歯下駄をはいた友人が来ていたそうだ。)

父の部屋は二階で八畳間。そこにはボール紙で作った軍艦がいっぱいあって、海のようだった。
その軍艦をつかって、たとえば「ジェットランド海戦」を再現し、何時何分にはこういう作戦でこういう陣形、などと、並べ替えて遊んでいたという。
軍艦はすべて父が手作りしたもので、すごく精密なものだった。

中学時代に年雄さんは絵の勉強をはじめたが、その師匠は父が見つけてきた。
「群」を発行するとき、当時はGHQの許可を得る必要があり、その申請の際に知り合った彫刻家だった。その人は寺内万次郎のお弟子さんだったそうだ。

やがて年雄さんは学校を退学し、画集などを見に池袋の西口にあった露店の古本屋に通っていた。
そこでよく会うおじさんと知り合いになった。おじさんは、蔵書を売っては、その代金で別の本を買っていくことをくりかえしているようだった。

年雄さんはそのおじさんと仲良くなって(かわいがられて?)毎週火曜日に会う約束をした。

あるとき、おじさんは北園克衛のすばらしさを語り、これをぜひ読みなさいと、詩集『白のアルバム』をくれた。
「北園克衛は絵描きでもあるんだよ。詩も小道具を目の前にして書くんだよ。」
と教えてくれたという。

おじさんが帰ったあとで、古書店の人が言った。
「兄ちゃん、あの人ね、ああ見えて偉い詩人なんだってよ。春山行夫っていうんだ。」

父が『蕗子』を年雄さんといっしょに印刷したのは、単に兄弟だから頼みやすかっただけではない。年雄さんがそれにふさわしかったからなのである。

父は、長男として高柳家のなかでとても頼りにされていたそうだが、兄弟に慕われる兄でもあった。
次男行雄は、俺は将棋では兄貴より強かったんだと今でも懐かしく語る。(父は将棋が強かったらしい。群馬に住むいとこと風呂のなかで、盤をおかずに将棋をしたという。)
妹の美知子は、胸ときめかせて兄重信の蔵書を盗み読み、友人たちとの会話を盗み聞いていたという。
そして末弟年雄は、父が一番若いころのお弟子さんだったのかもしれない。

※火曜印刷については、また、思いだしたことがあったら書き足します。


posted by tyouseki at 16:02| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする