2011年05月25日

友よ我は片腕すでに鬼となりぬ 鑑賞

(この鑑賞を前のブログに書いたのは2005年2月です。今もそんなに考えはかわっていないので、そのまま転載します。)

 意味は読んだ通り。興味深いのは言葉のシチュエーションの取り合わせだ。全体は重々しい口調だが、「友よ」は若者のような連帯感を呼び起こす。全体が苦ければ苦いほど、その一滴の救いが生きてくる。そういう構造の句だと思う。
 苦いといえば父の句はほとんど句全体の緊張が強くて苦いが、この句は特にそれがポイントだと思う。なぜかといえば、友への報告内容が「片腕がすでに鬼になった」というずいぶん特殊なことで、さあどういうことだと思うかと挑戦的なまでに、徹底的な苦みをつきつけてくるからだ。「友よ」とその他の部分のギャップを読み手がどう受け取るかが読みのポイントになるぞと言っている気がするのだ。
 「友よ」というフレーズは、流行歌にもあったが、純粋な気持ちなどを分かち合う同志への呼びかけを思わせる。
 しかしこの句の雰囲気は、現在理想を同じくする同志がそばにいるという甘さは許容しない。過去に純粋な時間を共有し、いまは遠くにいて、消息不明な友など、直接的には語りかけられない者だろうか。現状の辛さに耐えるために、マッチ売りの少女が小さな炎のなかに見たおばあちゃんみたいなものかもしれない。
 いやいやもっと苦みを味わおう。思いを共有できる誰かには、会ったこともないかもしれない。この信念はそれほどに孤立しているかもしれない。「友よ」と、信念を共有するものがあると想定して、心に秘めた自己の信念に対して呼びかけているのではないか。
 この人は身を犠牲にして何かに取り組んでいるが、それは瞬間的な努力で実現することでなく、身体がだんだん鬼になってしまうような長い年月を要することのようだ。また、その犠牲も、単に健康を損なうのでなく、何らかの理想を抱きながら、「鬼」という悪いものに変貌してしまうことらしい。
 この点は、たとえば「神」のような善のものにならねばならないのに、意に反して鬼になってしまって挫折した、という解釈もできるのだが、私は、いわば理想を貫く副作用として鬼に変貌しつつ、まだがんばっているよ、という報告として解釈したい。
 徹底的に苦いということを念頭におくなら、挫折の報告をする苦みよりも、絶望的な状況でもあきらめないで耐えているほうが苦い。身体を砕かれる拷問か修行みたいなものに、孤立無援で耐えているような感じとさえ思えてくる。
 
 私の解釈のポイントは、この句が徹底的に苦い句になることをめざしていて、苦ければ苦いほど「友よ」という呼びかけのかすかな甘さの味わいが出る、ということだ。
 これは私の解釈であって、正解のひとつだとは思うが、唯一絶対の正解というものではない。
(句に絶対の正解がないことについては、戸田市の「重信展」の図録に寄せた「父の俳句」に詳しく書いたので、もしよかったら参照していただきたい。)


posted by tyouseki at 16:40| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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