2011年05月25日

おーいおーい命惜しめといふ山彦 鑑賞

(2005年3月)
 うわー、この句、一見やさしいんだけど、そして、やさしいまんま受け止めれば十分だけど、踏み込んでみるとけっこうこってるなあ。

みどころと思う点を、考えながら書き出して行きます。長文ご容赦。


 いちばん簡単な解釈は、前回のコメントでご指摘のあった「折笠さん」に関係のある句だとするものだ。
(注:このころコメントを受け付けていたが、その後おかしな書き込みが増えて対応しきれなくなり、コメントを受け付けない設定にしたのだが、その際あやまって、せっかくのコメントを消してしまった。)

 前回とりあげた
「友よ我は片腕すでに鬼となりぬ」について。
確かにこの句は、作成の動機に、筋肉の進行性の病気で長く辛い闘病生活をおくった折笠さんへの思いをこめた句、あるいは鎮魂の句として読める。だとすると、この
「おーいおーい命惜しめといふ山彦」
の句はその続編のように読むことができる。
「友よ我は片腕すでに鬼となりぬ」
という呼びかけに、はるかかなたから「友」が返事をよこしたみたいではないか。

 父はきっと、そのような読み方も成り立つと想定したと思う。しかし、そう限定まではしていない。そこまで限定したらやや〈作り過ぎ=自分を歌物語にするような感じ〉だろう。
 むしろこの句の存在は、そうした個別化を避け、「友」を普遍化していると思う。そして、その普遍化された「友」はさらに、「山彦」という語の力によって「内なる声」にスライドしていると思う。


 とりあえず素朴に句の言葉を受け止めてみよう。

 どこかからこだましてきた声が、「おーいおーい命惜しめ」と言っている。現実にそういう「山彦」が聞こえることはなさそうだから、これは、自分をいたわる必要などふだん感じていない人が、ふとそういう内なる声を聞いたような感じなのだろう。

 その口調は幼なじみからの言葉のように親しげで、「おーいおーい」と二度重ねてあるのは、遠方からの声という印象を強めている。
 そして「山彦」だから、もともと自分の声なのかもしれないという暗示がある。

 「山彦」歌語としてみると、
(歌語、いや俳句なんだけれど、詩歌の言葉としての「山彦」は、現実の「山彦」には期待できない役目を果たし得る。そういう観点に立ってこの語を見ると、という意味だ。)
「山彦」は、意識していなかった内なる声を、外からの声がとして聞き、かすかな意外性を感じながら自身で受け入れてゆく、という状況を表せる言葉だ。

 このように、「山彦」を「過去の自分の声」と解釈するなら、遠い過去の自分の声が長い年月を経て、思いがけず戻ってきていたわってくれたという句になる。たとえば若いころに自分が、命を惜しいと思ったことがあったのかもしれず、それがグッドタイミングに、人生の後半に戻ってきたことになる。
 それも、父は考えたにちがいない。若いころに結核で死にかけたことがあるから、その後生き延びて晩年にさしかかるころ、過去の自分の声が戻ってきたというのも悪くないと思っただろう。


 「友よ我は片腕すでに鬼となりぬ」
の句は、叙述上は「友」に呼びかける形だが、内なる自分への呼びかけのように感じられた。そして、この「おーいおーい」の句も、逆に呼びかけられる形ではあるが、山彦だから、自分の言葉の反響だ。

 その点に注目しても、この二つの句は、表裏一体となって補い合っているように見える。
 体が鬼に変貌しても(つまり身体を損なっても)やりとげる使命があり、自分を励ますために「友」という同志を想定する句と、そんな自分に幼なじみみたいにいたわりの言葉をかけてくる「山彦」が想定された句。そんふうにも読めると思う。 
posted by tyouseki at 16:52| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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