2016年11月24日

文学フリマのフリーペーパーpdf

いままでのフリマで配布したフリーペーパーのうち、
4点のpdfを、ここに置いておきます。
(一応URLも書いておきますね。)
https://drive.google.com/drive/folders/0B-ya5Qpou8Q6N0ZWVjdRSllESDQ?usp=sharing

2015年11月 「野菜の歌」鑑賞
2016年5月  「動物の歌」鑑賞
 以上2点は、かばんの歌会の2次会で、たまたまそばに座っていた人たちの意見を聞いてまとめました。

2016年11月(評論としては着想の段階ですが、それなりおもしろい)
  「ぼろぼろ聖」=「ぼろぼろ」という語を詠み込んだ歌を見比べながら「ぼろぼろ」を考察しています。
  「この青はなぜ青い?」=「青」を詠み込んだ歌には、「ことさらにプッシュする」という楽しく飛躍するレトリックが含まれていることがよくあるので、集めて考察してみました。 
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2016年11月21日

【新評論集 『短歌の酵母U 空はともだち?』11月15日刊行】

沖積舎 2500円
目次
1 空はともだち? ――イメージの盛衰現象
2 かわいそうな自転車 ーー便利なうすうす歌語
3 袖振り合うも ーー言葉で無い袖を振るとき
東京文学フリマでも販売します。

フリマでは、このほかに、昨年の『短歌の酵母』なども
少し販売します。
フリーペーパーも二種類用意しました。
soratomo scan mini.jpg
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2015年07月22日

『短歌の酵母』(沖積舎)刊行

『短歌の酵母』は、「鹿首」に書いた長い評論4本に手を入れて、
一冊にまとめたものです。
沖積舎 2000円(税別)

目次
1 みんなで育てる歌語
 トマトぐっちょんベイベー!  潰れトマトの百年
2 題材の攻略
 〈時間〉の背後霊
3 短歌の身体
 身をくねらせる短歌さん
4 歌人は酵母菌
 醸すカモシカかもしれない

2015年6月25日発行
ですが、なかなかネット書店に出ませんね。
普通の書店で注文すれば買えます。
 
トマトぐっちょんは特に、「鹿首」掲載時からなんとなく評判が良かったですよ。(^^)v


ネットも手広くやってると全部に目がゆきとどかなくなります。
TwitterやFacebookにかまけて、このブログのことを忘れていました。(笑)
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2015年03月06日

【アンケートに突撃せよ!】「突撃!他人の短歌観 短歌らしさの境界」

【アンケート】「突撃!他人の短歌観 短歌らしさの境界」
短歌が好きな人ならどなたでも。

「どこまでが短歌なの?」
という素朴な疑問から企画したアンケートです。
アンケートは回答数が多いほど正確な結果が得られますので、
ぜひご協力ください。
→→ http://enq-maker.com/hho3PCf

回答はほぼ選択式でカンタン。
無記名なのでお気軽に!
(ひとつだけ記名回答のものがありますが、任意です。)
アンケート期間は3月いっぱい。

集計結果は、回答期間が終わると、同じ場所で見られるようになります。
また、「かばん」6月号に報告記事を掲載します。
hikouki naku.jpg
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2013年04月10日

【かばん30周年イベント「ふしぎなかばんを携えて」参加申し込み受付中】

『かばん』30周年記念イベント

■5月12日(日) 2:30-8:00 (開場2:00)

■会場 SHIDAX HALL (東京・渋谷)
 http://www.shidax.co.jp/ssv/hall/hall_access.html

■参加費3000円 飲み物・軽食・記念冊子付き

■内容

●Session 30- 短歌の相談室- <トークショー>
佐藤文香(ゲスト) 佐藤弓生 穂村弘 

●短歌たたかう- 歌合せ-
石川美南(ゲスト)笹公人(ゲスト) 
伊波真人  東直子 柳谷あゆみ 山田航

●パフォーマンスだぱんぱかぱん - 映像作品・歌・朗読 -
井辻朱美 伊波真人(feat. 鳥栖なおこ)
榎田純子(かばん北海道)  
柴田瞳 & 法橋ひらく & 雨宮真由
陣崎草子 千葉聡 伴風花 雪舟えま
 
●かばん賞表彰

●本誌バックナンバー・会員著書販売
  フリマ・自由販売・展示

★途中、おやつ・おしゃべりタイムあり

■参加申し込みはこちら
http://happymail.matrix.jp/happy/form/47082/form.cgi

(必要事項を入力して送信すると、確認画面になるので、再度送信をクリック。
 申込みが完了すると、受付メールが自動送信されます。)

■印刷用チラシ
http://www.kaban-tanka.jp/pdf/30chirashi.pdf
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2012年08月01日

ワイルド歌会

■1
テレビをつけたら、芸人さんが、「ワイルドだろ?」というのをやっていた。
ネタの最後に「ワイルドだろ?」つけるらしい。
ネタ自体も面白いけれど、「ワイルドだろ?」で、もう一段階笑える。


「野犬をなでまわした手でおにぎりを作った。→→ワイルドだろ?」

「ワイルドだろ」はその芸人さんの独自の決まり文句らしいが、その番組は特別な趣向だった。
他の芸人さんが作ったネタで演じ、さらに他の芸人さんが見て、誰が作ったネタかを推理する、というものだ。
ネタの球筋を読んでいろいろに推理するが、それが当たったりハズれたりするのがさらに笑える。

そういえば、題詠歌会のときに、「これは誰々の作に違いない」なんて言って、その当たりハズれに大笑い、っていう場面がよくある。似てるなあと思った。

■2
それきり忘れたつもりだたったが、翌日、「ワイルドだろ?」という自分の声で目が覚めた。
歌会の夢を見ていたのだった。

「かばん」歌会。いつもの会場。
次々に、短歌を読み上げては、一呼吸おいて、「ワイルドだろ?」と言う。

「…………旅にしあれば椎の葉に盛る→→ワイルドだろ?」

あ、言われてしまった。

「…………ちからある乳を手にさぐらせぬ→→ワイルドだろ?」

わあ、それもあったか。言われてしまった。

次は自分の番なのに何も思いつかない。
はやく言わないと何か大変なことになるんだった。
そうだ、言わないとみんな獣に変身して食い合いすることになるんだった。

急かす目でこちらを見ている人たちの顔が変化しはじめている。
歌会でいつも温厚なAさんも、鼻がとがり眉間が広がって何かに変身しつつある。

私も、すごく胸もとがかゆくなった。
思わず掻きむしりながら、、
「もっともっと草原情歌 俺は胸に固い子鹿がつかえている→→ワイルドだろ?」
と、やぶれかぶれに自作を叫んだ。
wairudo mini.jpg
そこで目が覚めたのだった。

目が覚めてもしばらく、歌会のみんなは助かったのかと気になった。
胸元のかゆみは、夏場にいつも悩まされるカイカイ病のはじまりだった。

夢ネタですみません。
でも、ちょっとやってみたいな、こういう歌会。


夢のなかで他の人が読み上げた歌は、はっきり聞こえませんでした。なぜなら私はうろおぼえで暗証できないから、夢がごまかしてくれたのでしょう。
正確には以下の歌でした。

家なれば笥(け)に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る 有間皇子
春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳(ち)を手にさぐらせぬ 与謝野晶子
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2012年01月27日

出版文化賞、そして演劇も 『あけもどろの空』

■沖縄タイムスの出版文化賞授賞式に行って来ました。

『あけもどろの空 ちびっこヨキの沖縄戦』は、児童文学部門で受賞。

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-01-25_28939/

この本の著者高柳杉子は、沖縄出身で、私の義理のいとこにあたります。
私の叔母美知子といっしょに沖縄戦の本を出版しようとして資料を集め、メモをとるなどしていましたが、癌のために44歳という若さで他界。
美知子が発起人となって、私が編集、叔父がイラスト、杉子さんの両親と杉子さんの友人でライター荒木美由樹さんの協力も得て完成させました。

授賞式では、著者杉子の二人の母(実母=主人公ヨキと義母美知子 下の写真)が笑顔でスピーチ。
この様子は25日の沖縄タイムスに掲載されました。


■演劇『あけもどろの空』 3月25日に上演予定

『あけもどろの空』は、23年度八重瀬町平和事業として、演劇になります。

まず3月25日に上演、その後も各学校などで上演するとのこと。

台本がもうできていて、目を通しました。
わかりやすく、コンパクトにまとめてありました。

関東出身である私たちではうまく書けなかった沖縄方言が、
実にいきいきと盛り込まれています。

3月にはまた沖縄だ!!
akemo-jyusyo.jpg

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2012年01月13日

出版文化賞だって! 『あけもどろの空』 

『あけもどろの空 ちびっこヨキの沖縄戦』
(一昨年、編集などを受け持った本で、昨年は図書館選定図書になった)が、
沖縄タイムスの出版文化賞に選ばれました!!

今月下旬、授賞式があるので、沖縄に行きます。

受賞もうれしいけど、沖縄に行けるのがうれしい。

(いや、自腹ですけど、気が向いたらホイという距離じゃないから、
用事ができて腰をあげられることがうれしい。)

このほか、演劇にして、本に出てくる地域の学校で上演するという話もすすんでいて、もうシナリオが出来たらしいです。

tbiyoki hyousi


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2011年10月24日

【対決 春と秋の七草の歌】

せりなずなごぎょうはこべらほとけのざすずなすずしろ春の七草
はぎすすきききょうなでしこおみなえしふじばかまくず秋の七草

ご存知、七草を暗記するための実用短歌です。
でも、なんとなく春の七草の歌のほうが知られている気がします。
どうしてだろう? 比べてみましょう。

■1 意味内容:どちらも無内容で差はない。

■2 日常的ニーズ:これがたぶん一番大きな要因。
 どちらも、季節感を支える植物を覚える上で役立つのですが、七草粥は春だけ。つまり、春の方は、具体的に食べて味わうし、その食材を揃えるという実用面でも、この歌が役に立ってきたのです。(1000年ぐらいかしら?)

■3 歌の優劣:
 歌人としては、歌としても検証せずにいらりょうか。
 語感や音の流れは意味があればあまり気にならないけれど、このように無内容の歌ではむき出しになる要素です。どちらの歌も語調をきれいに整えてあり、姿の良い歌に見えるけれど、春のほうが、なんとなく言葉が滑らかで心地よいと思いませんか?

○春の七草
 「せり↑なずな↑」から「ごきょう↑はこべら→ほとけのざ/\」と展開して静かな波で情感(の雰囲気)が高まる。「ざ」ではじめて下がりますね。
 つまり、上の句は、ぽんぽんと軽く突き上げ、「ほとけのざ」で受け止める安心感が絶妙なのです。
 これを「すずな↑すずしろ↑」のリフレインの美しい“二た撫で”が掬い上げ、静かに、下りの多い「春の↓七草/\」の着地に備えるのです。

○秋の七草
 まず、 「き」が3つ続くのが言いにくいのは大きなキズ。
 冒頭「はぎ↓」 と下がりで入るわけですが、この場合、後ろでケアが必要になります。
 ひごろあまり気にかけませんが、上がる語感のほうがやさしく、下がる語はどちらかといえば言えば叱責に通じます。「コラ」とか「バカ」とか。(他の要素もあるから一概にはいえないけれど)
 (なお、なぜか日本語ではなだらかに山なりになる言葉のほうが安定した感じになります。5音以上の単語は、「三輪車」「金曜日」「脳天気」 など、なんでもいいんですが山なりが多いのですが、それと比べて、「コンサート」のように下がる言葉は、やや突き刺すようなキツさがある。外来語が多いみたいですね。)

 はじめの「はぎ↓」を「すすき↑」で掬い上げたはいいけど、けっきょく 「ききょう↑なでしこ/\おみなえし/\」の部分の山が小刻みで、叱責口調から抜けられない。冒頭の「はぎ↓」の下りのキツさをなだめるどころか、二回の↓が、むしろダメ押ししている。もう少しやさしく掬い上げてほしかったなあ。(笑)
 「ふじばかま/\くず↓」 ここももうおわかりでしょうが、まだ小言が続いているみたいな感じでしょう?(笑)

 そういうわけで、語感や音の雰囲気は、なんとなく春の七草の歌のほうがやさしく心地よく感じるのだと思います。

■4 その他の要素
○歴史の深さ?
 春の七草粥は古くからのしきたいで、少なくとも平安時代にはあったらしいです。

 「七草なずな 唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に・・・・・」という呪文歌を歌って、包丁でたたくらしい。
 (この呪文歌は長い歴史を引き継がれて、なんと私の祖母の代まで伝わっていた。だのに、その娘(私の叔母)は覚えなかったのだ。なんというもったいないことを! 親不孝者めがーー。
 と、かくいう私も、正月料理なんか作れないし、高柳家に伝わる正月料理の秘訣とやらがあったのに、教わらなかったのだ――嫌だめんどくさい、なんて言っちゃったのだ・・・ああおばあちゃんごめん、ご先祖のみなさん、ごめん。)

 じゃあ、「秋の七草」は?
 こちらは、万葉集巻8の山上憶良(やまのうえのおくら)の歌にこう詠まれていますから、古さではひけをとりません。
  秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花(1537)
  萩の花尾花葛花なでしこの花女郎花また藤袴朝がほの花(1538)

○まぎらわしさ
 実は、秋の草として代表的なものはこれにとどまらないのです。

 吾木香すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ 若山牧水
 
 また、鉄道唱歌では、

   くだる道には追分の原とよばるる広野あり
   桔梗かるかや女郎花秋の旅路はおもしろや

 と歌われています。「かるかや」を月見に供える地方があるとか、邦楽にも、秋の草を歌うもので「かるかや」が出てくるとか、秋の草はあの七草に確定できないゆえに、憶えにくい面もあると思います。

 和歌は文字のない時代からあったものなので、(つまりメモ帳がないんだから)、和歌の詩としての芸術性は、覚えやすさという実用性から洗練された面があろうかと思います。
 (実用品はフォルムや見た目、手触りなども洗練されていることが求められますよね。愛用の財布や手帳は見た目や手触りも大事でしょ?)
 
★オマケ 近作

日曜が暮れる罪状は何でもいい思い出の場所で逮捕されたい

※本日思い出した罪:先祖から伝わる料理を覚えなかったこと。(笑)


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2011年08月28日

【近代短歌のアンケート 歌人・詩人・俳人・柳人、そのほか短歌に興味のある方々へ】




★近代短歌の巨匠が競詠?


 ずらり春の歌20首 好きな歌はどれ?


 締切9・9 期間限定!!
   ⇒こちらからどうぞ



harynouta2.jpg

■私の所属短歌誌「かばん」で、アンケートを実施しています。

■提示された近代短歌20首(春の歌)から好きな歌などを選ぶもので、まるで近代短歌の巨匠が競詠したかのような楽しいアンケートです。
■「かばん」12月号の特集「近代短歌から〈かばん〉へ」に向けてのアンケートで、広くご回答をお寄せいただきたいと思っています。
■無記名でも回答できます。

締切9月9日 期間が短いのでお早めに。

■集計結果は12月

回答データは他の方法(ハガキ等)で集めた回答とともに集計し、
集計結果概要を「かばんweb」にもアップします。
正式な集計記事は「かばん」2011年12月号に掲載します。

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2011年08月14日

【チョキはなぜ好かれる?】

■チョキは人気者

 グー・チョキ・パーのどれが好きかと周囲の人数人に聞いてみた。驚いたことに全員チョキと答えた。
 気になったのでfacebookページ「しつもんごっこ」で投票してももらった。
 (★試みにこのブログにもアンケートを設置してみました。よろしかったら投票してください。)

 facebookのアンケートは、今のところ(2011年8月14日現在)回答者は少ないが(そうだろうなあ、すごくどうでもいい事だもの)、それでも、チョキ6、グー1、パー0で、チョキが圧倒的に好まれているようだ。
 ううむ。どうしてなのでしょう。

 理由は人それぞれなのだろうが、圧倒的にチョキが好かれる(あるいは、グーとパーがあまり好かれない)理由を推理してみよう。

■チョキのイメージ

[意味]ハサミ
 石・紙に比べると、道具としては作る技術が必要な感じ。
 (紙を作るのも技術が必要なんですが、イメージとして。)
 ハサミを使うのは決して難しくはないが、手の動きが複雑繊細で器用さに通じる。
[性格]
 石であるグーには刃がたたないが、紙であるパーに包み込まれても切り裂いて脱出できる。
[語感]かわいい。大きな刃物を振り回す粗暴さがなく、小回りが効く感じ
[形] 尖っている。グーチョキパーの中で一番難しい形。
[総合イメージ]
 知的、攻略、打開、素早さ。
 ハサミは、刃物ではあるが、ナイフのような危険な武器とは異なり、日用品・便利グッズである。武力腕力でなく技術知性の力を感じる。
 チョキには、小賢しい印象もなくはないが、総合的に見ると悪印象が少ないようだ。
[ついでの鑑賞 負け方への感情移入]
 腕力を象徴するグーに負けるチョキには、平和的な知恵が武力にうち負かされるかのような悲壮感がある。

■グーのイメージ

[意味]石
 硬い。頑丈。年月を経ても変化しにくい。
[性格]
 紙であるパーに包まれたら抗えないが、ハサミであるチョキにはびくともしない。
[語感]押しが強い、鈍重、我慢。
[形] 拳骨。握りこぶし。手が作れる形の中では最も効果的に腕力を振るえる形。
[総合イメージ]
 意志を固める。実直で根性がある。小細工なく率直に怒りを集中。忍耐強く意志を貫くが、時に横暴、強引。
 そんなに悪印象はないようだが、問題解決の手段が腕力である、という感じが、いまひとつ人気がでない理由ではないだろうか。
[余計な鑑賞 負け方への感情移入]
 強いはずのグーがパーに包み込まれてしまうのは、ああやっぱりという感じだ。単純な正義が政治力に丸め込まれてしまうかのようだ。

■パーのイメージ

[意味]紙
 紙は、さして丈夫な素材でなく、切れたり破れたりする。石やハサミに比べると火や水にも弱い。
 そういう弱点を持ちながらも、面積と形を変えることができるという強みがある。
[性格]
 刃物であるチョキには為す術もないが、石であるグーに対しては包み込んで制圧できる。
[語感]単純、のんき、気さく、包容力、開放的。
[形] 手の面積を最大にした形。グーチョキパーの中で一番かんたんな形。握手を求めるような隠し事のないフレンドリーな感じ。
 その一方、支配力も感じさせもする。「掌握」という語があり、この形からは掴みかかることや、掌の上で踊らせることもできる。
[総合イメージ]
 単純で、語感の上ではアタマを使わない感じ。すべてを呑み込む空や海のような絶対性。
 そこには、清濁併せ呑むような怪しさもあるために、開放的でフレンドリーというイメージが少し嘘っぽくなる。
 要するに、パーはグーのような真面目さに欠け、チョキのような知性も足りず、そのうえ信用出来ないところがあるのだ。
[余計な鑑賞 負け方への感情移入]
 パーは不気味である。グー・チョキより恐ろしい感じである。なんとなく政治力、目に見えない支配力を感じさせる。
 だからなのか、パーがチョキにあっけなく敗北するときには、なにやらはかなさとともに、かすかな開放感が感じられる。

■チョキが好かれる理由

 チョキは知的で、刃物だが平和的である。
 小回りがききそうで、名前もかわいい。
 小さなチョキが大きな紙の支配を打ち破るのは快感である。
 固いグーにけなげに立ち向かって刃が立たないのもかわいい。
 これらを相殺するような悪いイメージがあまりない。

 グーとパーは、良いイメージもあるが、悪いイメージもけっこうあるために、チョキほど人気が得られない。

saana tyoki2.jpg
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2011年07月12日

【言葉のセンスをくすぐる「しつもんごっこ」質問一覧】

「しつもんごっこ」というfacebookページに、言葉関係の「しつもん」を随時アップしています。
 
facebookアカウントがないと見られないようなので、こちらに、「しつもん」だけ書いておきます。
おもしろい回答もあるけれど(まだ少ないし)、「しつもん」だけでもある程度は言葉のセンスをくすぐると思います。
 
(facebookアカウントを持っている方は、こちらへどうぞ。よろしかったら解答や投票もお願いします)
 
以下、2011年7月12日現在
 
【語呂合わせ的に言葉​を味わう?】
 例えば「サルコジ大統​領」と聞くと「猿孤児​」、「小松菜」を煮る​時「困ったな」などと​、頭の横っちょの無駄​事処理欄に似た言葉が​一瞬呼び出されますが​、みんなそうかな?
 ●たとえば「あかばね」という字を見て「バカ姉」という言葉を連想するようなことがよくある
 ●たまにある
 ●めったにない
 
【ベンジャミンごっこって?】
 ひとりごとで「ベンジャミンごっこ」と意味もなくつぶやきました​。はて、そんなのがあるとしたらどんなごっこだろう。選択肢に回​答を記入してください。
 〈解答例〉
 ●頭をもじゃもじゃにして丸めがねをかけてパサージュの話をする(ベンヤミン。英語読みするとベンジャミン)
 ●「サインコサインベンジャミン」と叫んで人の頭をもしゃもしゃにする遊び
 ●勉強して偉くなろうか、ジャングルに隠れて暮らそうか、みんなと日暮れまで遊んじゃおうか、と身の振り方を決める占いごっこ
 
【ドレミの音の好き好き】
 ドレミの音に好き嫌いってありませんか? あくまで音の感じでお​答えください。
(「ド」とか「レ」の語感ではない。例えば私は「​レ」音を下品に感じる一方、「レ」の語感は上品に感じる。)
〈解答例〉
 ●シのフラットが好き
 
【ホラー度比較】
 『姉』という本と『妹​』という本がある。ど​ちらかがホラーだとす​ると、どっちだと感じ​ますか。二つセットで​言葉を提示しますので​、ホラー度が高いと思​う方に投票して下さい​。また、ホラー度を比​べたい言葉の選択肢が​あれば入力して下さい​。
〈解答例〉
 ●机と椅子では (現在、椅子6、机0)
 ●姉と妹では  (現在、姉5 妹1)などなど
 
【へんな言葉が頭にこ​びりついちゃったこと​は?】
 落語で「まだふみもみ​ず かかのきんたま」​というのを聞いて以来​、式部内侍の大江山の​歌を言い間違いそうに​なります。こういう現​象があったら書いて下​さい。
〈解答例〉 
 ●空耳アワーで、ビートルズの「I want to Hold Your Hand」を「アホな放尿犯」と聞きなして以来、そうとしか聞こえない。
 
★募集★【ザブトンにはザブンがある】
 「ザブトン」という言葉には「ザブン」が含まれていますね。こう​いう言葉を見つけたら、コメントで教えてください。
…ザブトンのザブンは、西東三鬼の「水枕ガバリと寒い海がある」​を見て最初に思ったことです。(笑)…
〈解答例〉
 ●レインボウには陰謀がある
 
【グー・チョキ・パーではどれが好き?】
 じゃんけん勝負の時は、かたよらないように出しますが、語感とか​手の形とか、人それぞれになんとなく好みってありませんか?
 
※私はなんとなく「チョキ」が好きです。自分自身のイメージもなん​となくチョキっぽいと思います。そして、そのチョキに勝てる「グ​ー」を尊敬し、チョキに絶対勝たない「パー」は優しいと感じます​。
 
 
■なお以下の、「言葉」に関係のない質問も混ざってます。

【一生に一回あるかないかのラッキー】
 例えば、100円の古本を買ったら、一万円札が挟まっていた、ぐ​らいのレアなラッキーな出来事があったら教えてください。

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2011年07月10日

【「なければ――ない」と「ならーーある」の論理的な違い】

 今日、『鳥の仏教』中沢新一(新潮文庫)を読んでいて、
「情熱がなければ、祝福に満ちた力は注がれない」
みたいな「ナニナニでないと、カニカニでない」という言い回しが多いなーと思った。
 
 それで思い出したことがある。
 
 むかし、社内報の編集をやっていたころ、歯を大事にしようという特集で、
「自分の歯で食べないとおいしくない」
という原稿を扱った。
 
 このタイトル、どうせ言うならポジティブに、ということで、
「自分の歯で食べればおいしい」
に変更になった。
「同じような意味だし、すっきりしていい。」
と、執筆者も喜んだ。
 
 記事のタイトルはそれでOKだ。
 が、そのあと「同じような意味」ということが気になった。「同じよう」だが少し違う。その違いは何だろうと。
 
 ポジティブかどうか、みたいなことじゃなくて、論理的な違いがある。そう思えたが、その場ではなかなかうまく説明できなかった。
 
 しばらくして、二つの条件があるときは四つ窓に整理する、というのを覚えた。
 こんな具合だ。
 
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
      |自分の歯| 自分の歯でない
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
おいしい  |  A  |  B
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
おいしくない|  C  |  D
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
 こうして見ると「自分の歯か否か」と「おいしいかどうか」の二つの条件だと、4通りのケースがあることがわかる。
 
A 自分の歯で食べる おいしい
B 自分の歯でない  おいしい
C 自分の歯で食べる おいしくない
D 自分の歯でない  おいしくない
 
 最初の、「自分の歯で食べないとおいしくない」は、このABCDのうちBのケースを棄却したものだ。
(Cの〈自分の歯で食べる おいしくない〉は棄却はされていない。)
 
 それに対して、「自分の歯で食べればおいしい」はどうだろう。
 こっちは、Cのケースを棄却している。
(Bの〈自分の歯でない おいしい〉は棄却はされていない。)
 
 ね? こういう微妙な違いがあるんですよ。
 
 それがどうしたって? こんなふうに、言い回しによる微妙な違いがあることを知らなかったら、すり替えに気づかないでしょう。
 
 人に騙されないためだけでない。自分が自分の文章の中で、論理的に軸足がズレちゃうのを防ぐためにも、たまにこういうことを考えておく必要はあると思う。
 
冒頭の
「情熱がなければ、祝福に満ちた力は注がれない」
も、試してみよう。
 
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
            | 情熱あり| なし
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
祝福に満ちた力が注がれる|  A  |  B
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
注がれない       |  C  |  D
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
A 情熱あり  祝福に満ちた力が注がれる
B 情熱なし  祝福に満ちた力が注がれる
C 情熱あり  祝福に満ちた力が注がれない
D 情熱なし  祝福に満ちた力が注がれない
 
「情熱がなければ、祝福に満ちた力は注がれない」は、この4つのケースのうちBを棄却する。Cは棄却はされていない。
 
「情熱があれば、祝福に満ちた力が注がれる」と言い替えた場合、Cが棄却され、Bは棄却はされていない。
 
 ああ、やっぱり。
 微妙な違いだけれど、これをすり替えてはいけない場合がきっとあると思う。
daijinamono.jpg

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【どうしたら、こうしたら】

dousitara kousitara.jpg

■1 発端は「ああ俺はどうしたら」


「ああ、俺どうしたらいいんだろ。」
 
 従弟にとっつかまって、実に7時間も愚痴を聞いた。

 はじめの4時間はそう退屈ではなかった。この従弟は話術に長けていて、人の心をつかむ話し方ができるのだ。

 だが、しょせんは愚痴。4時間を過ぎたころから、何度か「じゃあこれで」と帰ろうとしたが、従弟は引きとめるワザにも長けていて、とうとう7時間もつきあってしまった。
 
 どうどうめぐりのあげくの何度目かわからない、「俺どうしたら」に私はキレた。

「あんた、今日、『俺どうしたら』って何べん言った? あたしはそのたび何種類の『こうしたら』を提案した? あんた今、そのうちの一つでも覚えてる? そもそも解決する気なんかないでしょ?」

「えー、俺、ほんっとどうしたらいいかわかんないんだよぅ。」

「なんとかしようとするフリを楽しんでるだけで、けっきょく見慣れた不幸が好きなんでしょ。愚痴野郎は死ななきゃ直んないわよ。あんたはあたしを、死ななきゃ直んない愚痴の捌け口にしただけだ!」
 
 私は機関銃を撃ちまくった。もう気が済んだ。だから、この文章は、愚痴の捌け口の捌け口として書いているのではない。

 この「捌け口を必要とする」という心の働きには、危険性があると思える。頭にいろんなことがあふれて来ちゃったので、書くという方法で整理するために、これを書きはじめた。
 
■2 理髪師は穴を掘ったが
 
 自分では解決できない問題をかかえ、それを人に言うことを禁じられたら苦しい。これはその問題の解決とは別のことだ。行きどころのない気持ちはどうしたらいいのか。
 
 「王様の耳はロバの耳」式に(「愚痴」ではなく「秘密」だけれど)、穴を掘ってぶちまけたらどうだろう。

 ミダス王のロバ耳を見た理髪師は、穴をほってこの秘密を打ち明けたが、地面でさえ耐えきれず葦を生やして、「王様の耳はロバの耳」という秘密を風に乗せて拡めてしまった。
 
 「秘密」は世間にばらまかない限り、「捌け口」を必要とし続けるようだ。「愚痴」はどうしたら消滅するんだろう。「愚痴野郎は死ななきゃ直んない」のか?
 
■3 ゴキブリおばさんの八つ当たり
 
 唐突だが、子どものころ、友だちのお母さんで、すごくやさしそうな人が、ゴキブリを見たとたんスリッパを振りかざし、キーッと言いながら追いかけるのを見たことがある。
 
「食わぬ殺生はいけないんだよ!」

 びっくりして、思わず変なことを言ってしまった。
 そしたら、おばさんがふりむき、なんだかものすごくキンキン怒った。

 害虫を駆除するならわかるが、スリッパを汚してまでゴキブリに制裁を加えなくてもいいだろう。何かが過剰だった。あの行動は八つ当たり、つまり、何かの「捌け口」だったのではないだろうか。

■4 はらいせに叩きつけるぬいぐるみ

 知人の家に行ったら5歳ぐらいのK子ちゃんがいて、ぬいぐるみを抱いて、なにやら話しかけて遊んでいた。

 ところが、K子ちゃんは母親に何かでしかられたとたん、ぎゃっと泣いて、ぬいぐるみをバシッと床に叩きつけた。
 
 私が思わず、「あ、痛い!」と(例によって余計な)声をかけたら、K子ちゃんはもっと怒って、(うぜえよクソババア、こうしてやる、とばかりに)ぬいぐるみの足を持って、何度も何度も床に叩きつけた。

 これも八つ当たりの一種だろう。はらいせと言ってもいいかもしれない。

 ゴキブリおばさんも、K子ちゃんも、文句も言わず抵抗もしないものを相手に選んでいる。

 おばさんの場合は、わりと大きい虫のゴキブリを選ぶことで、やっつけた達成感を味わっていた程度だった。

 しかし、K子ちゃんの場合は、母親に子どもの自分が叱られたから、とっさのはらいせで、自分の子どもに近いぬいぐるみを痛め付けた。はらいせが下へ落ちてゆく。そして、そのことを他人に注意されてさらに腹をたて、(でも、その他人を直接痛め付けられないから)、その他人が同情したぬいぐるみをうんと痛め付けることで、「おまえのせいで、こいつはもっと痛い目にあっているぞ」と、間接的な仕返し行為に出たのだ。

 これって、かなり怖くない?
 
■5 思考操作で例外を作る

 ゴキブリおばさんは、相手が「害虫」だということがスリッパで叩き殺す十分な理由になり、八つ当たりしても自分は責められないと思っていた。(無意識にしろ、例外を作ったのだ。)

 K子ちゃんは、生き物でないぬいぐるみなら痛め付けても自分は責められないと思っていた。(無意識にしろ、例外を作ったのだ。)

 要するに、「原則としてやってはいけないこと」に、「ただし相手が害虫ならOK」とか、「相手が生き物でなければOK」みたいに、無意識に例外を付け加えているのだが、そういう思考の操作に、私は危険を感じる。

 目に見えないものが「捌け口」を求め、例外を作ってそこにぶちまける。このとき自分は、全く無傷だろうか。何か目に見えないものを負うことにならないのか。

■6 身代りの紙人形と代償

 どこだったか旅行先で立ち寄った神社かお寺に、厄災を紙人形に移して水に流すというのがあった。

 その看板には紙人形の値段とともに、紙人形に託す厄災の例がすごくいっぱい書いてあった。
 身体のあらゆる部分の病気や痛み、心の病、家族親族のもめごと、その他、人生上の数々の困難がずらずら。

「ひっでー、人形がかわいそう!」
と言ったら、同行者が「えっ、なんで」と驚いた。
(さては、紙人形を買おうとでも思ったか。身勝手な奴だ。別れよっと。)

 身代りに厄災を移すという発想は、非道すれすれではないだろうか。

 だが、人形に厄災を移して流す呪術的な行事は各地にある。それは日常的に呪術に親しみ、一方では呪術の代償についても知っていた時代にできた習慣だ。呪術は天下の回りもので、そういう方面で借りを作らないような生活(日々神棚や仏壇に供え物をするなど呪術的な精進)をしていたのではないだろうか。
 
 日頃、呪術的な精進をしない現代人が、身代り人形を金で買って(自分の犠牲はカネだけで)、辛苦をすっかり負わせましょう、はないだろう。そういう安易なシステムには薄気味悪さがある。

 こういうことを自分に許したら、厄災よりもっと悪い借りを背負う気がしないか?
 
 ゴキブリおばさんもK子ちゃんも、自分が責められないと思っていた。つまり、ゴキブリもぬいぐるみも、代償を求めないから安全な捌け口だと思っていたわけだ。身勝手と安易さに突き動かされ、何かが見落とされてはいないだろうか。
 
■7 エスカレートを制御できない
 
 そういえば、星新一の「ぼっこちゃん」の中の一つに、捌け口の対象がエスカレートしてゆく話があったと思う。

 ある男が交番に自分は人を殺しそうだと自首してきて、「ある夏イライラしたので虫を殺したらスッキリした。次の夏は虫では効かず、もう少し大きいものを殺したらスッキリした。夏に向けてだんだん大きいものを用意するようになった。昨年は猿を飼った。さあ逮捕してくれ。」という意味のことを言う。

 巡査はとりあわず男を帰すが、帰り際に「家族は?」と聞くと、男は「最近、結婚しました」と言う。
 そういうような話だった。
 
「捌け口」は、本人も制御できないところまでエスカレートすることがあるのではないだろうか。

■8 拡大する「例外」

 旅行先の池のある公園で一休みしたとき、まわりの鳩の様子がおかしいことに気づいた。釣り糸が足に絡みついて、歩けない鳩がたくさんいる。中には片足がもげてしまってけんけんしている鳩もいる。

 「釣り糸を捨てるな」という意味の立て札があった。しかし、広い池の周囲を見れば、もうそこいらじゅうに糸が落ちている状態だった。

 鳩の足を鋏で切り落とせと言われたら、たいていの人は、そんな残酷なことはやりたくない。
 だのに、この残酷は現実として起きている。
 さっき、「例外を作る」という思考操作について書いたが、「自分が放置した糸があとから鳩を苦しめても構わない」と思うために設けた「例外」は何だろう。

「直接的に手を下さない場合は」だろうか。

「自分がやったとバレず責任を問われない場合は」だろうか。

「他の人もやっているので自分だけ気をつけても無駄な場合は」だろうか。

■9 「仕方ない」とあきらめる判断

 立て札をたてただけで釣り糸を放置している管理者はどうだろう。

 たまには掃除するのだろうが、池の周囲はなにしろ糸だらけだった。掃除回数が足りないのは明らかだ。

 管理者も、「注意はしたが改善されないなら仕方ない。(注意を守らない人が悪いのであって、当方は責任を問われない。)」という思考をしている気がする。
 
 これは、「構わない」ではなくて「仕方ない」とあきらめる判断基準を作る思考操作である。本当に全く打つ手がないなら「仕方ない」だろうが、責任を問われない地点でさっさと「仕方ない」ことにしていないだろうか。

 ただし、私も「仕方ない」と思ったのだ。

「私に今できることは、目についた糸を少し拾うことだけだ。それ以上はできない。仕方ない。」

 でも、本当に「仕方」はなかったのだろうか。せめても投書ぐらいはできたのではないか。頻繁な掃除や糸を捨てた者を罰するなどの有効な措置を工夫しろなどと。
 
■10 愚痴は「仕方ない」を攻略しない

 そういえば、冒頭の従弟の愚痴には、「仕方ない」がたくさん含まれていた。

 従弟は「仕方ない」ことで八方が塞がりだった。もう何も打つ手がないと既に結論が出ていた。

 はたから見ると、それは彼の手持ちのカードでは「どうしようもない」だけである。相談された私は、別のカードを混ぜて考え直す方向で「こうしたら」を提案したが、新しいカードを混ぜて考え直すという意識改革に比べたら、もう慣れつつある現状に耐えるほうがずっと楽なのだ。

 それでもあきらめきれずに、あるいはあきらめたことにしたくないために、「俺どうしたらいい?」と、どうどうめぐりしてしまうのだ。

 「仕方ない」の攻略のために自分を変える意欲がない。そのことに気づかず、あるいは隠してする話を、「愚痴」というのである。

 「仕方ない」と「自分を変えない」の矛盾から、捌け口を必要とする何かがもくもく発生している。

■11 無関係な「かわいそう」1 裸の銅像

 私はゴキブリや人形への同情心からこれを書いているわけではない。そういう感傷的な気分のことを書いているのではない。私が書いているのは、「捌け口」を求める身勝手がエスカレートしてゆく危険、代償はないと思っていても自身の何か見えないものを損傷するかもしれないことを考えない安易さ、を言っているのである。

 誤解はないと思うが、紛らわしいことをはっきり棄却しておこう。

 例えば、駅前や公園に銅像が立っている。あれはたいてい素っ裸で、中にはずいぶん辛そうなポーズをしているものがあって、そういう銅像を見るとき、「まあ大変だねえ」と、ちょっと気の毒に思うが、これは関係ない話だ。

 銅像の作者は、何かのはらいせで寒空に銅像をすっぱだかにしたわけではないだろうから。

■11 無関係な「かわいそう」2 救命人形
 
人形のくちびる少し切れている数えきれないくちづけを受け 入谷いずみ
 
 救命訓練用の人形を詠んだ歌。童話のお姫様などは口づけで幸せになるのに、この人形はそうならない哀れさが詠まれていると思う。(人間だって、物語から外れたときは、この人形のような哀れな状況に陥ることがないとも限らない。)

 マウストゥーマウスの訓練は生身の人間ではなかなか務まらない仕事であって、必要があって作られた人形だ。くちびるが切れてしまう救命人形は哀れだが、人の身勝手な思いの捌け口として、人形に口づけさせているわけではない。だから、これも本件には関係なし。

■12 代償を払わなかったことを誇れるか

 ニュースで、過酷な現場に入って作業するロボットの映像を見た。

 彼らにもちょっと悲壮感がある。作業中の事故で殉職することもあるかもしれない。が、これも「捌け口」にされた哀れさではない。だから、この文章の趣旨とは関わりの薄いことである。

 ただし、ロボットで思い出したことがある。

 先にもあげた星新一のショートショートに、ハルマゲドンの戦いをロボットにまかせて、人間はテレビで観戦するというのがあった。

 ロボットたちはよく戦い、ついに悪に打ち勝つ。ロボットたちの死体るいるいの戦場に神が降り立つと見るや、人間の代表は誇らしげに駆けつけた。

 だが、神は人間に見向きもせず、ロボットたちを救ってさっさと帰ってしまったのだった。

 原発事故現場に作業ロボットを投入するニュースに、なにやら技術を誇るような雰囲気を嗅ぎ取ると、複雑な思いを抱く。

 人が作業できない環境にロボットを送り込むのは「仕方がない」ことだろう。だが、代償を払わない事柄は、人はともかく、神には誇れない。

 まして、人間の技術が引き起こした重大な事件では、それにかろうじて対処する技術のチラ見せなんか、人間相手でも誇るようなことではない。

 以上 思いつくままに。


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2011年07月01日

【野原で見かけない蝶をみつけたとしよう】

野原で見かけないキレイな蝶をみつけたとしよう。

太郎は、ぜんぜん興味を持たなかった。(蝶はいなかったも同然だ。)

次郎は、「あれ?」と言って蝶をつかまえてみたが、なんだかわからないので捨てて帰った。それ以上の興味は持たなかった。(蝶はいなかったも同然だ。)

三郎は、蝶をつかまえて、人に「珍しいだろう」と見せたが、そうこうするうち蝶は死んでしまって、それきり興味をなくした。(蝶はいなかったも同然だ。)

四朗は、蝶をつかまえてきて家の図鑑で調べたが、見つからなかった。子ども用の図鑑だから載っていないのかなと思った。そうこうするうち蝶は死んでしまって、それきり興味をなくした。(蝶はいなかったも同然だ。)

五郎は、蝶をつかまえてきて家の図鑑で調べたが、見つからなかった。図書館の大きな図鑑でも調べたが見つからなかった。そうこうするうち蝶は死んでしまって、それきり興味をなくした。(蝶はいなかったも同然だ。)

六郎は、蝶をつかまえてきて家の図鑑で調べたが、見つからなかった。図書館の大きな図鑑でも調べたが見つからなかった。そうこうするうち蝶は死んでしまったが、写真をとってネットで「この蝶が何なのかわかる人はいませんか。新種でしょうか」と聞いてみた。誰も知らないようだった。それきり興味をなくした。(結局、蝶はいなかったも同然だ。)

七郎は、蝶をつかまえてきて図鑑で調べたが、見つからなかった。図書館の大きな図鑑でも調べたが見つからなかった。そうこうするうち蝶は死んでしまったが、写真をとって、ネットで「この蝶が何なのかわかる人はいませんか。新種でしょうか」と聞いてみた。誰も知らないようだった。そこで、「この蝶が新種かどうかを確かめるにはどうしたらいいでしょう」と親や学校の先生に聞いてみたが、有効な助言ができる人は七郎の周囲にいなかった。手だてがないまま、それきり興味をなくした。(結局、蝶はいなかったも同然だ。)

大事なのはいつだってここからなのだ。
手だてがないと思えるここからなのだ。

さて、あと何人分書けば蝶は「いた」になるのか。

蝶「めんどくさいんだねぇ。」
 
 ★続きを読む
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2011年06月25日

ベビーシッター チャコ

(なんとなく自分のために書いた童話のようなもの。)

むかし、チャコは犬だったんだって。

僕が赤ちゃんのときもらわれてきた。
僕とおんなじ大きさの仔犬。

僕を見たとたん、尾をふりまわして、僕にすりよって、
僕の顔をべろべろって舐めたんだって。
そしたら僕もチャコに抱きついて、
べろべろべろべろ舐めてやったんだって。

これはいいベビーシッターが来た。
そういって、みんなにこにこ見てたんだって。

でも、僕がちっちゃいとき、チャコは死んじゃったんだって。
そんなの僕は覚えてない。

とにかく、それはウソなんだ。
だってチャコはいまも僕のそばにいるんだよ。
見えないけど、耳のそばで、
ハッハッハっていう犬の息の声で、
「どこにもいかないわ」っていってるよ。

(へ、チャコは本当に死んだんだぜ。俺も覚えてないけど、もう犬なんか忘れちゃえよ。)

チャコは、
僕が何をしてもほめてくれる。
僕が何もしなくてもほめてくれる。
僕はいつもいい子だよ。

(何いってんだ。チャコなんかいねーよ。俺がいつもカンペキってだけだ。)

他の子が先生にほめられて、僕ひとりだけしかられたよ。

なんですかこれは。みんなちゃんとやってきたでしょって、
先生は僕のノートを指でトントンやったよ。
宿題の作文が三行しか書いてないって。

「作文は長さじゃありません。中身が大事。

『ぼくは、はみがきがきらいです。
ぼくは、ハンバーグがすきです。
ぼくは、せかいのひとのしあわせをねがっています。』

すばらしい! ひとつのムダもない。あなたはテンサイだわ。
きっと先生は甘やかしてはいけないと思っているのです。
トクベツにかわいがって、きびしくなさるんでしょう。」

チャコはそう言うのだ。
そうなのか、と僕はなっとくする。

(俺はテンサイなんだ。そうかい、チャコもそう言ってるかい。わかってるじゃねえか。)

「あなたはやさしい。あなたは強い。」

バーカ、弱虫、いくじなしと友達に言われて帰る道々も、
チャコは僕を褒めてくれる。

「やさしいから、強いから、
お前こそバカだとか言わないであげるんですよね。我慢できるんですよね。」

うん、そうなんだ。
僕はやさしいから言い返さない。
僕は強いから、くやしがったりしない。

(俺はくやしかねーよ。バカはあいつらだが、俺は言い返さない。そのーがかっこいい。)

僕が泣いても、チャコは僕を褒めてくれる。

「ときには率直に泣くべきですよ。そう、えらいえらい。純粋な涙はうつくしい。」

そうか、僕は純粋だから、こんなになみだが出るんだね。

(俺はかっこよく泣くぞ。はははは。)

僕の部屋にはおもちゃがいっぱい。
ともだちに自慢しても見に来てくれない。
でもチャコは、ハイセンスだって褒めてくれる。
こういうハイセンスなおもちゃで遊んでいれば、僕はごきげんだ。

(そうとも。俺様はごきげんさ。)

僕は、はみがきが嫌い。だからはみがきなんかしないんだ。

「いいですとも。天才は嫌いなことなんかしなくても。」

僕はハンバーグが大好き。毎日食べてりゃ言うことなし。

「あなたが満足なら、チャコもうれしい。」

ニュースを見たよ。戦争こわい。災害こわい。
世界の人がみんな僕みたいに幸せになればいいのになあ。

「まあ、なんてやさしい人でしょう。チャコはあなたが幸せならそれでいいの。
そうだわ。おんもは危険よ、悪い子がいっぱい。車がいっぱい。
戦争もあるば災害もある。
あなたがケガでもしたらチャコは悲しくて死んでしまいます。
だから、おうちでいい子にしていてね。」

そうだね、僕はチャコのために、なるべくうちでいい子にしているね。

(ふふん。君子危うきに近寄らず。俺はいいこちゃんにしてるよ、ベイビー。)

ところでさあ、

ときどき、鏡の中に知らないおじさんがいるんだ。

すると、チャコは、声をひそめて言った。

「この部屋にはときどき幽霊が出るんです。
でも心配しないで。あれは怖いものではありませんから。
さびしくて鏡の中に現れるだけのものですよ。
にっこりしてあげれば、幽霊は喜びますよ。」

そうなのか。僕が幽霊にほほえんでみせると、
幽霊もほほえむ。
僕は幽霊にやさしくしてあげなくちゃ。

「そうですとも。あなたはとってもやさしい人。」

(俺ってやさしい。サイコー。)


春だよチャコ

夏だよチャコ

秋だよチャコ

冬だよチャコ


晴れだよチャコ

雨だよチャコ

雪だよチャコ

そしてまた晴れだよチャコ


ねえチャコ。
僕、ふあんなんだ。
みんなが僕を仲間外れにしてるみたいだよ。

(なんでだよ。どうして俺は嫌われてるんだ。俺がかっこいいからやいてるとかかな。)

「ヤキモチですよ。
ほっとけばいいの。ヤキモチ焼きなんか。
あなたはあなたのまま、今のまま、何一つ変えなくていいんです。」

そうだよね。僕はこのままでいいんだよね。ずっと。

(俺はこのままでいいさ。バカの機嫌なんかとれねえよ。人間どうせいつか死んじまうんだし。)

チャコ。チャコ。

どうしたの。
このごろ返事してくれない。

友人に電話をかけてみる。
チャコはそっちに行ってない?

「いいかげんにしろ。もう電話しないでくれ。」

なんだか冷たいよ。
どうしてだろうチャコ。
おかしいよチャコ。

(おかしいな。俺。おかしいな。俺。)

チャコ。チャコ。
いないなあ。

外に出てみる。
街行く人が僕をよける。
おまわりさんが俺を呼びとめる。

「ちょっとちょっと、じいちゃん、どこいくの。」
「僕のだいじなチャコがいなくなったんです。」

(俺、さむい。腹減った。)

おまわりさんは、
「まあまあ」と笑って、
「家で待っていなさいよ。じき帰って来ますよ。
これでも食べて、あったかくして寝なさいよ。」
って、肉まんひとつくれたけど。

(なんかにやついて言いやがったよな。むしゃむしゃ。歯がないとよく噛めねーな。)

チャコ、チャコ。

あの幽霊が、いつのまにか、すごくおじいさんになってるよ。
そいでもって、
幽霊おじいさんは泣いているんだよ。

僕がほほえみかけても、
(俺が笑いかけても、)
幽霊は泣いてばっかりいるよ。

かわいそうに、かわいそうにって。
(誰のことかな、かわいそうにって。)

かわいそうにって。


posted by tyouseki at 19:22| Comment(0) | TrackBack(0) | ひまつぶメモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月22日

『あけもどろの空』増刷&全国図書館協会選定図書に#okinawa

『あけもどろの空』は、私のいとこの奥さんで沖縄出身の、
高柳杉子の著書で、
その両親が6歳で体験した沖縄戦を、児童書にまとめたものです。

琉球新報や沖縄タイムスでとりあげられ、本はさっさと売り切れてしまいましたが、
ついに増刷が決定。
全国図書館協会選定図書の「第44回夏休みの本」に選ばれました。

高柳杉子は、この本の執筆の途中で乳がんで他界。
44歳という若さでした。
あとを親族と友人が引き継いで本を昨年完成させました。

内容は、(以前もここに少し書きましたが)
なにしろ実話ですから、
6歳でひじょうに残酷な、悲惨な状況を目撃して、
思い出すのも辛いという記憶ではあるのですが、
(本を完成させるために、私も沖縄に行き、たっぷりお話を聞いて来た)
6歳のあどけない素朴な受け止めかたをしていて、
ファンタジックな面まであるのです。

そういう要素も盛り込み、
一般に「戦争体験」という聞いて感じる重苦しさは少な目で、とても読みやすい内容です。

(不謹慎ながら、私は、戦争の実録等を最後まで読みとおせたことがありません。
ヒロシマの記録映画を見たら途中で貧血になってしまった、という弱虫です。
つまり、いかに事実でも、刺激が強すぎると頭が許容できずに拒絶するわけですが、
そんな私でも、この本はちゃんと読めます。)

主人公とその家族はどちらかといえば幸運なケースであり、
爆弾をかいくぐり、燃えるサトウキビ畑を逃げまどうなどしながらも、
この一家は人間らしさを失わずに済み、
この主人公は子どもらしさを失わずに済みました。

この本の特徴は、悲惨な一場面に焦点をあてるのでなく
沖縄戦が始まる前の平和このうえない生活から、
長い長いイクサに耐え、それが過ぎ去ったあとのことまでを、
ある一家に密着して、通しで書いてあることです。

★なお、
この本には、本土から沖縄に来ていた日本軍の軍医、シラカワさんという人が登場します。

沖縄戦における日本軍の話というと、暗いものが多いのですが、
このシラカワさんは、大変親切な方で、
主人公の一家にとっては命の恩人でした。

シラカワさんの部隊は、本島の東風平村に駐屯していましたが、米軍が上陸する少し前に、移動していったとのこと。その後の消息はまったくわかっていません。

ご本人がご存命でなくても、ご遺族の方と連絡がとれたら、当時のシラカワさんのご様子をお伝えし、お礼を申し上げたい、とのことです。

posted by tyouseki at 00:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ひまつぶメモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月21日

愛は非礼だ

※以下の記事は、重要な内容だと思えてきたので、ここでは手を加えずに、整理、修正、補足したものを、本体HP読解ノート17としてUPしました。よろしかったら、新しい方をご覧ください。

*  *  *

 そうだよー、愛はそもそも非礼なものだよー。

 ある評論を書いていてこの歌とりあげながら、ふいにそう思った。

死なば愛さむ父のひだり手注射器に一すぢの血のさかのぼるなり 塚本邦雄
 
 以前は(――私が二十歳ぐらいの時分は――)「愛」といえば、なんだか使いにくい言葉だった。すでに胡散臭さにまみれつつも、みだりに使えないという緊張感があったっけ。

 愛は、対象を、対象化する。ゆえに非礼だ。
 真に畏れおおいものは、じろじろ見ない。そこにあると意識し、感じ取り、ときに周辺を詳しく語るという方法で婉曲に言い表わすなど、直接的に対象化しない。そういうふうに非礼にならないように配慮しないだろうか。

「愛は非礼だ」という感覚は、とても説明しづらい。理解もされにくい。
 多くの人が誤解する。
 なぜなら、日常的に使う言葉は、風呂屋で男女にわかれるがごとくに、良し悪し、善悪などに、考える以前に色分けされているからだ。「愛」は良いものであり、「非礼」は悪いもの。これだけでも混乱してしまう。
(最初に二つに分けるのは、使う頭が半分で済んで効率がいい。私だって日常はそれに習っている。)
 だが、家庭用の包丁で切り分けられるモノばかりではない。

 そういうわけで、愛が非礼だということは、実に説明しにくいとかねがね思っていたのだが、この歌を見たらそうでもないと思った。
 歌の読解も兼ねて、考えを整理しながら書いてみたら、多少わかりやすく書けそうだ。

■なぜ「死なば愛さむ」なのか

死なば愛さむ父のひだり手注射器に一すぢの血のさかのぼるなり 塚本邦雄

【読解】(読解は歌を総合的に読むので、本文の趣旨に関係ないことも書きます。)

 読者の私は「死なば愛さむ」に戸惑いつつ、注射器をさかのぼる父の血液のふるまいをありありと思い浮かべる。
 この血のふるまいは、消えかかる父の命の最後のふるまいであると同時に、作中主体の緊張の高まりにも添っている。
 弱った父の血のふるまいを見て、今まで畏怖してきた父がいかにもあえかな弱いものになっていることに衝撃を受ける。
 それでも父が生きている限り父への畏怖の念をしっかり保つべきだという気持ちが、「死なば愛さむ」という言葉になって明確化し、父を愛したいのをこらえている。
 (ここは別の解釈もあるが後述)

 それらは歌の中で無時間的≠ノ起こっている。それがこの歌の威厳である。

無時間的=\説明その1
 この歌は、親子が具体的にどんないきさつでここに至ったかという、歌の外側の経緯を断絶し得ている。
 これが日常会話だったら、親子の愛憎のような話になって、「まあ、お父様にはお父様なりのご事情が」などととりなしたくなっっちゃったりするだろうが、この歌を読むとき、そんな「ご事情」だの、読者個人の人生経験からの意見だのは、いかにも卑小であって、思い浮かべたとたんうすら恥ずかしくて取り下げるしかない。
 要するに、この歌の鑑賞に外から何か持ち込む必要は全くない。歌の言葉以外に何も補う必要がない。外の世界のあらゆる「いきさつ」を遮断するゆえに無時間的≠ネのである。

無時間的=\説明その2
 この歌では、歌の中で進行≠オた経緯さえも無意味化し得ていると思う。先に「この血のふるまいは云々」と数行にわたって書いた歌の解釈は、散文ゆえに「○○して、××と同時に、△△になる」という因果関係を取り除けない。歌そのものと比べると、味わいも迫力もだいなしだ。それは無時間性≠ェ損なわれたからに他ならない。

 以上のように考えたあとで、落ちついて、「死なば愛さむ」を考えてみる。
 これは、ふつうの愛憎という概念でも語れる気がするが、やっぱり違うと思う。

 これまでのいきさつが集積した「愛憎あいなかばする」感じもなくはないのだ。
 死ぬまでは父に気を許せないが、死ねばこの緊張から解放されて父を素直に愛せる、という期待のようにも読み取れなくはないのだ。

 実は、私は長いあいだ、そのように解釈し続けてきたのである。
 が、その解釈は、この歌の威厳に対して卑小である感じもぬぐえずに来た。

 では、主体はどうして「死なば愛さむ」と思ったのか。
 歌の外を見ずに歌の言葉を見る。

 そうすると、(さっきのくりかえしになるが)主体はたった今見ている注射器の中の血のふるまいの弱々しさに衝撃を受けた。畏怖してきた父はすでに弱まり、なんと愛を必要としているように見えるではないか。
 だが、父が弱ったからといって、いま人として愛しては非礼である、それは威厳ある父をおとしめる。生きている間は、死ぬまでは。
 だから「死なば愛さむ」と、愛をこらえているのだ。

■「愛」という言葉の矜持

 私は、「愛」という言葉に、以下の緊張感を感じる。

「この言葉は大変だいじなもの、畏れるべきものを指し示す。ただし、それには、まがいものがいっぱいある。だからこの言葉はしばしば、まがいものに対して用いられ、胡散臭さを帯びてしまっているのだが、たとえ本物がこの現実の世界にはないとしても、人間が本物を感受することが不可能だとしても、この言葉は、本物を指し示し続ける。」

 つまり、私にとって「愛」という言葉は、ちまたで何を「愛」と呼ぼうが、それらがどんなに胡散臭かろうが、本物の「愛」にあこがれて指し示そうという矜持を帯びている言葉だ。

 (――待って。誤解しないで。「言葉が矜持を帯びる」というのは言葉の擬人化である。言葉を使う人の矜持ではない。――人はピーピーキャーキャーいろいろすぎて、かまっていられない。――紛らわしいのだが、私は言葉が好きなので擬人化したくなるのだ。――ああいや、言葉が好きだということは擬人化の理由ではないな。人も言葉も森羅万象の一つ一つであって、どこか対等である、そういう形の親しみの感覚だ。そう、親しみによる擬人化。――)

 「正義」という言葉も似ている。あまりにもいろんなもの、いろんなウソが、「正義」という言葉で振りかざされる。仮にどこかに本物の正義があったとしても、ウォーリーのようにまぎれてしまって、めったに見つからないだろう。それでも「正義」という言葉は、行方不明の息子を待つように、どこかにまぎれた本当の正義を待っている。

■本質は迷子だ

 言葉に対して本質は、なんであれ迷子だと思う。
 だが、ふつう人は言葉を、もっと慎重に使う。自分の子でない子どもに対して「お母さんですよ」とみだりに名乗らない。
 遊園地で迷子になったとき、もしも「母」が大勢名乗り出てきたら、どれだけ困惑するだろう。正義はいまそんな状態の子どもだ。どの「正義」という言葉にもうっかり宿れない。
  
 そういう形で、今や「愛」という言葉は、「正義」という言葉と同じぐらい振りかざされ、「愛」は紛らわしいものが押し合いへし合いする広い世界で、迷子のなかでもいっそう迷子になっているのではないだろうか。

■読解という非礼

 いつだか、「あなたの批評は辛辣だけど愛がある」と言われたことがあった。
 ものが言えず、やや無理に笑顔を作りつつも、相手の目を穴のあくほど見返したら、その人の瞳がみるみる星形に破れてしまった。

 私は以下のことを口にしなかった。

「あなたは『やさしさ』のことを『愛』と呼んだにすぎないのだろう。そういう安易な用法は、真の『愛』という概念にあこがれを捨てない『愛』という言葉の矜持に対して、無神経すぎるじゃないか。」

「だいいち、私の文章に愛かと見間違うような『やさしさ』のボロが出てしまっているかもしれないが、それは少なくともあなたへの『やさしさ』ではない。」

「それとも、短歌や言葉に対する愛のことを言いたいのか。性愛みたいな安全なもの※でしかない。愛はそもそも、うんとデリケートなレベルで非礼なものだから、むやみに行使しないものだ。」

(※性愛は隠され社会的に抑圧されているが、性愛の本質そのものが生物の本能であるぶん、相手を対象化すること自体は自然であって非礼ではない。個人を欲望の対象としてしか見ないのは非礼だが、それは別の話。)
 
「とにかく、『愛』をまぎらわしくするものの中に私を加えないでくれ。しかも悪意なしに言うなんて。『愛?』と目で問い返しただけで瞳が破れちゃうなんて。」

 というわけで、読解という非礼は、真の愛を口にすることに比べればたいした非礼ではないと思っている。この程度が非礼になるほど短歌はやわじゃない。

 私は短歌を解剖的に読解する。それは短歌を対象化することだけれども、こんな方法を「愛」と呼んではいけない。
 なぜなら、対象を読解して切り開くというこの無遠慮は、愛そのものの「非礼」を意識しないで済む、性愛のように対象化がおおらかなレベルの無遠慮だからである。
 真に畏れおおいものには、愛をもってアプローチしない。対象化しない。

 要するに、私は今、「本当に愛しちゃうのは非礼だから、性愛の対象にしておくにとどめる。読解はそういうものだ」と、そういうふうなことを言っているのだが、これは理解され得るのだろうか。

追記
posted by tyouseki at 17:42| Comment(0) | TrackBack(0) | ひまつぶメモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月28日

五十歩と百歩 5 だるまさん戦争(4)【中途半端】

 ある百歩逃げは、逃げに逃げて初めの地点からすでに千歩も逃げていました。もうさんざんに嗤われまくりでした。
 そろそろ戻って、罰金を帳消しにしてプラスちょっと報奨金がもらえるぐらいのところに行こうかな。
 ここから、その百歩逃げは百歩進みとなって、前進を開始しました。振り返っては、追い抜いた五十歩進みたちを「やあい、のろま」とあざわらいました。

 そしてもとの地点に戻ったとき、あと号令は一回だと思いました。一日の回数が決まっていて、傭兵たちはちゃんと数えながら行動しているのでした。
 ですから、百歩は、そのあと一回、百歩進むだけの小さい稼ぎで今日を無事に終わらせるつもりでした。
 ところがそのとき、派手なくしゃみが出てしまって、ダダダンダダン。被弾してしまったのです。

 死んだかと思ったけれど、生きていました。怪我は軽くて、次の「だるまさんがころんだ!」では、停止というわけにはできませんでした。
 なら五十歩行こう。
 そう思って駆け出したのですが、中途半端な怪我だったため、切り良く五十歩というわけにいかず、三十五歩しか進ませんでした。

「ぐわわーん。だるまさんがどんどこしょー!」

 戦場が消え、傭兵たちが消え、突然まっくらになった地上に、三十五歩の男が取り残されました。切りの悪い場所にいると、地下に吸収されないようです。

「おーい」
「おーい、だれかいるのか」
 他にも中途半端がいるようでした。
「おれは三十五歩だ。」
「こっちは六十八歩だ。」
「私は五十一歩です。」

「あのう、五十歩以上の奴は、五十歩で止まればいいのでは?」
「そう思うだろ? ところがダメなのさ。行けるとこまで体が止まらないんだ。」
「それは厄介な。」

「これからどうなるんだ。」
「まずは五十か百にぴったり合わせて終了するように調整しなきゃいけませんね。」
 五十一歩は計算ができる男のようです。

「号令は一回の戦闘に百八回です。そのあいだに私は五十回動いて、そこで被弾し、ちょびっとだけ、つまり歩数が一歩減るようなちっちゃい怪我をするか、でなければ、絶対動けない大怪我をしなくちゃいけません。えー、三十五歩さんは十回動いて、その場でうまく被弾すればいいんです。六十八歩さんは、こりゃ難しい。えー、五回で三百四十か、惜しい。十五回で千二十、だめだ。二十五回で千七百、これですね。」

「ありがとうよ。俺にはとてもそんな暗算はできなかったよ。」
「問題は被弾です。手を振って、撃ってくれるように合図する。そして上手な被弾は、闇夜に霜の降るごとく。」
「なんだそれ。」
「いやあ、冗談。まあ、ちゃんと球筋を読んで、確実に当たるようにするんですよ。」
「できんのか、そんなこと。」
「どうでしょう。私はもう幾晩こうしているのかわからないもの。」
「出来たやつはいるのか。」
「わかりません。昨日までいた人たちは返事がないから、地下へ帰れたか死んでしまったかのどちらかでしょう。」
「死んだらどうなるのかな。」
「地面の底のそのまた底で、おっかないだるまさんごっこに出されるんじゃないかな。」
「うへえ。」
「ねえ、報奨金がたまったらどうなるんだっけ。」
「天に行くんだ。天のだるまさんごっこに出られるんだ。すてきなだるまさんごっこに。」

 このとき、どこかからささやきが聞こえました。
「だるまさんがわらった。わらった、わらった。ふふふふふふふふふふふふふふふふ。」

 だるまさんはたまに寝つけず、こういうささやかな会話を聞いていることがあるのです。
 地面が、ふふふふふふと揺れます。
 ふふふふふふふふふふふふふふふ。小刻みに揺れます。
 中途半端たちは揺れに合わせて、けんめいに体をもぞもぞさせたり転がしたりして、正しい位置にずらしました。

 いちばんカンタンだったのは五十一歩です。たった一歩分ですから。
「できたー。みんなもがんばってー。」
 そう叫んでいなくなりました。
 三十五歩も六十八歩も、そのほかにもいたかもしれない中途半端なみんなも、どうにかして地面の中へと消えていきました。

 背中掻いたら、どっとはらい。

(とりあえず終。なんか、暗い話ばかりできちゃいました。なんでこんな話が湧き出てしまうんだろう。)


posted by tyouseki at 15:59| Comment(0) | TrackBack(0) | ひまつぶメモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

五十歩と百歩 4 だるまさん戦争(3)【帳消し】

 ある百歩逃げが振り返ると、たくさんの五十歩逃げが嗤っていました。そのなかに、指さして嗤った奴がいましたが、指さすという動きが敵に見えたのか、とたんに被弾しました。
 百歩はなんとかその五十歩まで戻り、「なぜ嗤う」と尋ねたいと思いました。
しかし、一回に自分は百歩進んでしまうので、五十歩ずれた場所で動けなくなったそいつのところには行けないのです。

「だるまさんがころんだっ!」
 仕方なく、百歩はその五十歩の脇を通り過ぎながら聞きました。
「なぜ嗤った」
 そして次の「だるまさんがころんだっ!」で戻りながら答えを聞きました。
「足が速い奴は逃げたら罰金も倍かよと思ってさ。」
 そしてその五十歩は死んでしまったようでした。

「だるまさんがころんだっ!」
 百歩逃げは、別の五十歩逃げに追いつき聞きました。
「なぜ嗤った。」
「べつに。退屈だからかな。」

「だるまさんがころんだっ!」
 嗤った奴かどうかわかりませんでしたが、さらに別の五十歩逃げをつかまえて聞きました。
「おまえ、さっき俺を嗤っただろう。」
「さあね。だるまさんがころぶたびに、なにもかも忘れるんだ、俺は。」

「だるまさんがころんだっ!」
 嗤った五十歩逃げたちは、ちりぢりになり、百歩逃げはさみしく戦場を行ったり来たりしました。もう誰ひとり嗤ってくれませんでした。

「ぐわわーん! だるまさんだるまさん、あっぷっぷぅ!」

 すさまじい銅鑼の音が鳴り響き、本日の戦場が終了しました。

 戦場は一瞬にしてクリアされ、傭兵たちシュルッと地面に吸収されました。

 どさどさと地面の底に落ちた傭兵たちは、おお痛えと立ち上がり、全員、報奨金をもらう列に並びました。

 前にいた男が振り返って言いました。
「あんた、今日逃げた人だろ。」
「なぜ嗤った。」
「あんたが昨日俺を嗤ってくれたからだ。忘れたか。」
「そんなはずはない。俺は今日がはじめてだったんだ。」
「ほう、そうだったのかい。人違いだったかい。」

窓口の係員が、
「今日は行ったり来たりしたから、報奨金と罰金がちょうどとんとんで、帳消しだ。」
と言いました。
「私の今日までの報奨金はどれぐらいたまりましたか。」
百歩は、係員(窓は曇りガラスで相手が見えない)におずおずと尋ねました。
「まだまだ。まだ君の目標の千分の一にも届かない。金額を告げる価値もない。」

 傭兵たちは食事の列に並び、そのあと、あてがわれた寝床に入る列に並びました。元気な者も、怪我した者も。
 そして、ほとんどの者がうすうす気づいていることですが、実は死んだ者さえも、報奨金と食事抜きで寝床に放り込まれ、明日はまた生き返らなきゃいけないのでした。何もかも忘れて。
(続)
posted by tyouseki at 15:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ひまつぶメモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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