2011年05月25日

2005年7月 23回忌法要と句日の除幕式4 場所がわかりにくいです

何かのおついでのときに句碑を見てください、と言いたいところですが、
場所がホントにわかりにくい。

かといって、ここに詳しく書くのもどうかなと思うので、
どちらのお寺も伊勢崎市にあり、
法光寺は境下武士(ブシじゃなくてタケシ)
福寿院は境小此木(オコノギ)
という、この程度の情報でわかる人だけにお勧めします。

あまりにもわかりにくい場所なので、
どちらのお寺でも、地図を用意したとのこと。
つまり、片方にたどり着けば、もう片方の場所を教えてもらえる・・・。

福寿院では説明用冊子を多少作ってあり、
法光寺には「月光」(以前の記事で紹介)があるので、
残部があるうちはもらえると思います。

この写真は、福寿院の句碑案内です。

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このように案内はあるものの、
観光地でなし、商売でもなし、お寺ですから、
句碑を見るためとはいえむやみに庭に入ったら、あやしい人になってしまいます。
ちゃんと声をかけたほうがいいです。

法光寺の句碑は、
昔、そこで句会をしたご縁でできたということもあり、
法光寺さんは、
句碑を見る吟行会など句会の場所が必要なら、
場所を提供できる場合もあるようです。
伊勢崎近隣の俳句会なら吟行にいいかもしれません。
ただしお寺ですから、法事などが優先。
先にご了解をもらう必要があります。

JR本庄からタクシーで20分
本庄は埼玉県ですが、東京方面から電車で来るなら
これがかんたん。
ただしタクシー代が2500円〜3000円はかかってしまいます。
東部伊勢崎線境町からならタクシーも10分ぐらいで近い。

でもタクシーったら、本庄からでも境町からでも、
けっこう迷子になるのよねえ。
それで思わぬ出費になってしまうかも。

現に、私が本庄から乗ったタクシーも、
「ちず丸」で印字した詳しい地図を見せたのに、無線であちこち問い合わせるありさま。

周辺は畑ばっかり。
喫茶店なんかないので、決して気軽に来てはいけません。(笑)

この日は、なんと渋谷で親類の結婚式もあったのです。
叔父と叔母は、除幕式のあとの会食に出ないで、
湘南ライナーで渋谷の結婚式にかけつけました。
乗ってしまえば一時間半です。

私も会食会を終えてから、
それに乗って追いかけるつもりでしたが、
あうー、逃がしてしまったー。
高崎線でコトコト赤羽に行き、そこから埼京線で渋谷に。
でも、いろんなことをちゃんとやりとげた、という、
達成感のある一日でした。

posted by tyouseki at 18:34| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年7月 23回忌の法要と句碑の除幕式3 二つの句碑の共通点

法事とふたつの除幕式のあとは食事会だ。
法事のあとの食事会は「お斎(とき)」というらしい。

20人ぐらいの会食で、
法光寺ご住職、
父が疎開中に逗留して「群」を発行したお宅の中島さん、
(法光寺の檀家でもある)
父ゆかりの俳人さんたち、
親族、そして私、ひととおりスピーチをした。

二つの除幕式は、読経がすばらしかったし、
どこかの偉い来賓を呼んでハクをつけるようなこともなく、
全体としてすごく良かったけれど、
やっぱり句碑だから、
ちゃんと俳句の話をしなければ物足りない。

参加してくれた4人の俳人のスピーチはものすごく良かった。
遠くから、すごく早起きして来てくださって、
本当にありがたいと思った。

身内は、ことに群馬の親族は、
重信という俳人の業績や、
俳人として一人前になってからの人となりを案外知らない。
俳句に興味がない人は、
若い頃の傲岸不遜な態度とか、
戦時中長髪でいた変人だったとか、
そんなイメージだけを持ち続けているかもしれない。

せっかく句碑ができたのだから、
気持ちよく、価値があるものなんだと納得して、誇りに思ってほしい。
そうでなければ句碑がかわいそうだものね。

私は、すでに「月光」に書いたことをふくらませつつ、
二つの句の共通点について以下のことを話した。

【法光寺】
月光旅館 あけてもあけても ドアがある

【福寿院】
船焼き捨てし
船長は

泳ぐかな

この二つの共通点は「行く先がわからない」ということだ。
法光寺の句は、
わくわくしながらドアを開き続ける探究心の楽しい面を描いている。

それに対して、福寿院の句は、
探究心の厳しい面を描いているといえるだろう。
この人は、そもそも陸から離れて船長となったのだろうが、
さらに、そのよりどころである船さえも焼き捨て、
身一つとなって海を泳ぐのだ。

そういう見方をすれば、この二つの句はペアと言える。
開放的な場所にある法光寺の句碑、
庭の中の小道の木陰にひっそりと立つ福寿院の句碑は、
対照的な内容とそれにふさわしい対照的なたたずまいで、
絶妙のペアになってるじゃないか。

これは決してこじつけではない。
偶然に選ばれた二つの句が、意図せずにこんなにマッチしちゃたから、かえって信じられないが、
すばらしい組み合わせだと本気で思っている。
posted by tyouseki at 18:21| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年7月 23回忌法事プラスふたつの句碑除幕式2 (法光寺)

福寿院では、除幕式に続く3和音のお経と鉦や木魚の不思議な音色に感動。
そのあと法話などがあり、
みんなマイクロバスに乗り込んで
法光寺へGO!

福寿院の句碑は庭の木陰にひっそり立っているのに対し、
法光寺は、入り口近くの人通りの多い開放的なところにあります。
うしろにはどーんと大きな仏様がいて、
お寺の保育園の入り口もすぐそこ。

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除幕式の段取りは、福寿院とほぼ同じ。
三人のお坊さんの力強い般若心経や光明真言。

ここではなぜか携帯電話で写真をとりわすれ、
その風景をお伝えできませんが、
法光寺では、お孫さんまで一家総出で
真言やお経に唱和しました。

男女混声合唱みたいな光明真言・・・。

真言宗は呪術性が強いと聞いています。
真言は強い力を持つ呪言で、
そこにお坊さんだけじゃなくて、
小さい子供まで唱和すると、
霊験があらわれそうに言葉が頼もしさを増します。
でもそこに「呪」というおどろおどろしさは全くなくて、
底抜けに明るく素朴な力が、天に地に、
句碑の建立を祝い未来を清めているような感じがしました。

ここの除幕式の写真はとりはぐったのですが、
この句碑は特殊な石で、
黄色っぽい肌と、磨いた黒い面を、
次男がかなりうまく撮りました。
(本物はもっときれいです、もち)

posted by tyouseki at 18:17| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年7月23回忌法事プラスふたつの句碑除幕式1 (福寿院)

(2005年7月)
除幕式は、お経がかっこよかった。
なんといったって、二つの句碑が、
二つのお寺の境内に建立されたんですから。
法光寺と福寿院です
この写真は福寿院のほうの除幕式。

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幸い同じ真言宗、
二人のご住職は協力して儀式を企画したようです。
法光寺からは息子さんである副住職も来てくださり、
3人の力強い読経、そして不思議なハーモニー。

シンバルのような楽器をぐああーーんと打ち合わせ
それから、ジャランジャランと振って鳴らすのとか、
おおー、盛り上がるう。

句碑の除幕式でお経?
と、ちょっと思いましたが、
神道だけでなく仏教にも
建立物のお清めみたいな儀式があるらしい。

上毛新聞の人が来ていました。
上毛新聞は8日に、この二つの句碑のことを報じているので
それを読んで除幕式に来たという近隣の俳人もいるようです。
(その記事のコピーはもちろん引き出物に追加)

三人のお坊さんの読経。
ぎゃーていぎゃーてい
ああ般若心経か、
おんあぼきゃべいろしゃ・・・
ああ光明真言か
という程度しかわからない。

ここでの序幕の役は私と叔母の美知子。
照れくさいんじゃないかと思っていましたが、
すっかり非日常世界にひたって、
しかもその非日常が気に入って
ぜんぜん照れくささなんか感じません。

参加者は重信の親族、お寺の関係者、
父を古くから知る4人の俳人
それと新聞を見て来た人。
20数名だったと思います。

この福寿院の句碑になったもとの色紙は、岩片仁次さん所有。
(色紙ではなく、本に挟み込むか何かのために
 和紙に書いたもの)

福寿院の句碑の石は、どことなく船を思わせる形です。
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(法光寺の句碑はすでに別の記事で写真をup済み。)

場所は福寿院境内の、手入れの行き届いた庭の中。
庭がミニミニ散歩コースみたいになっていて、
句碑はその途中にあります。
参加者全員お焼香のあと、
本堂に入って23回忌の法要。

上毛新聞の取材風景
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中央の二人、ストレートのロングヘアが私で、パーマの方が、父の妹の美知子です。





posted by tyouseki at 18:12| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

法光寺句碑のしおり

(2005年7月)
法光寺の句碑のしおり「月光」ができあがりました。
24ページのささやかな冊子ですが、
タイトルは金の箔押しです!
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群馬在住の俳人で、土屋文明記念館での企画展のとき担当された
林桂さんにご寄稿いただきました。
そして、ご住職による句碑建立の縁起、
あとは主に高柳の身内による当事の重信の思い出、
私が書いた句の解説(本体HPにupしてあります)
といった内容です。

お寺の檀家さんやご近所さんに配布し、
残りは、句碑を見に訪れた人にさしあげることを想定した非売品として
法光寺に寄贈しました。

そういうわけで、あまり一般に宣伝する性質のものではありませんが、
少しだけ残部があります。
もしご希望がありましたら、メールで送り先などお知らせください。

posted by tyouseki at 17:12| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ことわざ読み? 2 「船焼捨てし」

(2005年4月)
こんど福寿院(重信の母の実家である群馬の寺)に建つ句碑には、


船焼捨てし
船長は

泳ぐかな


が刻まれる。

なにしろ場所はお寺だ。
法事で住職の訓話を聞いた帰りに句碑に目をとめるとしたら、
人生訓みたいなものとして受け止める人がけっこう多い気がする。

この句は、
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」
ということわざに近い解釈が成り立つと思う。

それはそれでいいかなあ、という気がする。

この句も解釈はわんさとあるが、

大洋において、拠り所であるはずの船を焼き捨てる。
それも船を最後まで捨てないとされる「船長」が。
この船長が陸におよぎつくのかどうか、
あんまりそういう感じがしない・・・。

という場面は、おおかた一致して読み取るわけで、
そこから、
「人生ときには思い切った転機も必要だ」
という教訓を引き出すこともできる。

私も最初はそう思ったのだ。
でも、
「しがらみを捨ててしまえ、なんとかなるさ」
という教訓にしては、なんとなく、
この船長が自らを追い詰めてきた感じが強いと感じた。

この船長は、
船は捨てても目的は放棄していないのではないか?
その目的そのものが、最初から、めざす陸地の見えない
かなり絶望的なものなのではないか?

「泳ぐかな」は、義務からの解放という面もあろうが、
「船」という手段を捨てて、
自力だけを頼りに海を行くという、
より純粋な方法を選択した、
という解釈のほうが今は気に入っている。

この句に対する私の解釈の詳細は「父の俳句」という文章に書いたから、
ここでは詳説しない。

芭蕉の「もの言へばくちびる寒し秋の風」も
無駄口をいましめる言葉として、
ことわざの本に載っている。

他人のうわさや悪口をいうむなしい感じそのものをあらわした句だが、、
それを「いましめる」と解釈してしまうところが
「ことわざ読み」の欠点だなあ。

posted by tyouseki at 16:58| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ことわざ読み? その1 「身をそらす」の句

(2005/04)
父の句が句碑になる。そういうことを意識したとき、
全く俳句に興味のない人の目で句を読んだ。

俳句ということを意識せずに句を読んだら、
「ことわざ」のように受け止めることがあるのではないだろうか。
たとえばこれ。(これは句碑にしなかったが)


身をそらす
虹の絶巓
    処刑台


もしかして、
「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」の反対、
「出る杭は打たれる」みたいな感じに受けとめないだろうか。
つまり、ふんぞりかえっていると処刑されるというふうに。

この句にはさまざまな解釈があり、
「ことわざ読み」的な解釈もそんなに見当はずれではないと思う。
ただし処世訓として
「だからおとなしく謙虚に生きろ」
というメッセージだと受け止めてしまうのはどうかなあ。
「虹」の無念さを読み落としてないかなあと思う。

一般的イメージとして「虹」は杭のように「出すぎたもの」ではない。
「虹」は、遠い国、理想の場所などにかかる美しい架け橋として
しばしば用いられる語である。
だから、身をそらして「虹」になろうとしたら、
まるで出る杭が打たれるように
てっぺんにいきなり処刑されたという、無念さも読み取れるのだ。

「処刑台」という文字があえて下のほうに配置されているのは、
ぶっつりと切られた感じを表しているか、
あるいは落下する理想を見下ろすような感じも読み取れる。

「ことわざ読み」は侮れない。
それは比喩を読み解といて自分に役に立つ教訓を探す読み方だ。
俳句は教訓を提示するわけではないけれど、
少なくとも比喩の受け止めという段階では、
立派な読者になっているし、わりに的を得て解釈するんじゃないかと思う。


posted by tyouseki at 16:55| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

おーいおーい命惜しめといふ山彦 鑑賞

(2005年3月)
 うわー、この句、一見やさしいんだけど、そして、やさしいまんま受け止めれば十分だけど、踏み込んでみるとけっこうこってるなあ。

みどころと思う点を、考えながら書き出して行きます。長文ご容赦。


 いちばん簡単な解釈は、前回のコメントでご指摘のあった「折笠さん」に関係のある句だとするものだ。
(注:このころコメントを受け付けていたが、その後おかしな書き込みが増えて対応しきれなくなり、コメントを受け付けない設定にしたのだが、その際あやまって、せっかくのコメントを消してしまった。)

 前回とりあげた
「友よ我は片腕すでに鬼となりぬ」について。
確かにこの句は、作成の動機に、筋肉の進行性の病気で長く辛い闘病生活をおくった折笠さんへの思いをこめた句、あるいは鎮魂の句として読める。だとすると、この
「おーいおーい命惜しめといふ山彦」
の句はその続編のように読むことができる。
「友よ我は片腕すでに鬼となりぬ」
という呼びかけに、はるかかなたから「友」が返事をよこしたみたいではないか。

 父はきっと、そのような読み方も成り立つと想定したと思う。しかし、そう限定まではしていない。そこまで限定したらやや〈作り過ぎ=自分を歌物語にするような感じ〉だろう。
 むしろこの句の存在は、そうした個別化を避け、「友」を普遍化していると思う。そして、その普遍化された「友」はさらに、「山彦」という語の力によって「内なる声」にスライドしていると思う。


 とりあえず素朴に句の言葉を受け止めてみよう。

 どこかからこだましてきた声が、「おーいおーい命惜しめ」と言っている。現実にそういう「山彦」が聞こえることはなさそうだから、これは、自分をいたわる必要などふだん感じていない人が、ふとそういう内なる声を聞いたような感じなのだろう。

 その口調は幼なじみからの言葉のように親しげで、「おーいおーい」と二度重ねてあるのは、遠方からの声という印象を強めている。
 そして「山彦」だから、もともと自分の声なのかもしれないという暗示がある。

 「山彦」歌語としてみると、
(歌語、いや俳句なんだけれど、詩歌の言葉としての「山彦」は、現実の「山彦」には期待できない役目を果たし得る。そういう観点に立ってこの語を見ると、という意味だ。)
「山彦」は、意識していなかった内なる声を、外からの声がとして聞き、かすかな意外性を感じながら自身で受け入れてゆく、という状況を表せる言葉だ。

 このように、「山彦」を「過去の自分の声」と解釈するなら、遠い過去の自分の声が長い年月を経て、思いがけず戻ってきていたわってくれたという句になる。たとえば若いころに自分が、命を惜しいと思ったことがあったのかもしれず、それがグッドタイミングに、人生の後半に戻ってきたことになる。
 それも、父は考えたにちがいない。若いころに結核で死にかけたことがあるから、その後生き延びて晩年にさしかかるころ、過去の自分の声が戻ってきたというのも悪くないと思っただろう。


 「友よ我は片腕すでに鬼となりぬ」
の句は、叙述上は「友」に呼びかける形だが、内なる自分への呼びかけのように感じられた。そして、この「おーいおーい」の句も、逆に呼びかけられる形ではあるが、山彦だから、自分の言葉の反響だ。

 その点に注目しても、この二つの句は、表裏一体となって補い合っているように見える。
 体が鬼に変貌しても(つまり身体を損なっても)やりとげる使命があり、自分を励ますために「友」という同志を想定する句と、そんな自分に幼なじみみたいにいたわりの言葉をかけてくる「山彦」が想定された句。そんふうにも読めると思う。 
posted by tyouseki at 16:52| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

友よ我は片腕すでに鬼となりぬ 鑑賞の蛇足

蛇足
 作品ができるきっかけとして、現実世界の出来事を持ち出すのは私の読解流儀に反するのだが、この句に限っては書いておきたいことがある。

 私が若いころはやったフォークソングに「友よ」というのがあった。そして、当時のフォークには他にも、若いころ純粋に理想を共有した友に呼びかけるような歌がいくつかあった。
 重信がフォークソングなんて、時代がずれていると思う人もいるだろう。
 しかし、フォークブームは、社会現象としてニュースにとりあげられたのだ。ベトナム戦争に反対する集会も多く、若者たちは集えば歌を歌った。新宿駅に若者が集まって歌う様子も、たびたびテレビで目にした。そういう場面でよく歌われた「友よ」を、父が聞きかじったって不思議はない。そのうえ重信には、私という高校生の娘がいたのだ。

 当時の高校の教室には生ギターがごろごろして、放課後はどの教室からも弾き語りが聞こえた。私もコード伴奏ぐらいはできたから、父に、いまこういう歌がはやっているのよと、いろいろ歌って聞かせていたし、私は「友よ」がけっこう好きだったのだ。
 フォークの歌詞の世界に出現した「友よ」という言葉は、当初は、理想を共有する戦いの同志に向けた呼びかけだった。
「友よ、夜明け前の闇の中で、友よ、戦いの炎を燃やせ。夜明けは近い夜明けは近い」
 「夜明けは近い」という部分の甘さが気になるけれど、少なくとも耳で聞き自ら声に出して歌うとき、「友よ」という出だしの呼びかけはすばらしかった。「そういえば私は誰にともなく『友よ』と呼びかけたくてたまらない」というふうに、言葉の欲求をかきたてられた。

 反戦運動を報じるニュースと、熱のこもった私の歌唱力(?)と、あの父の性格(人一倍理想を求め、純粋さを愛した)と、そして当然のこと父が言葉の感度が抜群であったことを合わせれば、フォーク世代とは縁のない父も、「友よ」という語の魅力に気づかなかったはずはない。

 そしてもうひとつ、私でさえ「夜明けは近い」は甘いと感じたわけだが、ニュースで平和運動の集会を見た父が、次のようなことを言ったのを覚えている。
「こんなふうに、大勢の人が何十年もかけて運動すれば変革できることもある。だが、もっと長い時間がかかり、何世代もの人が努力を重ねなければならないこともある」

 つまり、「夜明け」は近いとは限らない。うんと遠くて、幾世代もが夜明けを見届けることなく後を託して死なねばならない。そういう歴史的な大仕事だってあるということだ。その口ぶりには、父もそういう種類の大仕事のどこかに属しているかのような誇りがうかがえた。
(2005年5月)
 また、当時、大学紛争もさかんだったが、そのニュースのときこうも言った。
「彼らは東大や早稲田などに在籍する優秀な学生だ。もし彼らに強靭な忍耐力と信頼があり、何十年も連絡をとることなく信念を共有して隠し持っていられるなら、みんなして政治家や官僚になりおおせて、ある日一挙に革命を起こすことができるんだが」

 「できるんだが」は「できないだろう」に聞こえた。そんなに長い年月、仲間を信じ、信念を忘れずにいられるか。せっかく得た地位をなげうって、革命の同志にそろって戻れるとは思えない。忠臣蔵の四十七士だって何十年も耐えたわけでなく、それでも脱落者が出たのだから。

 作者と作品は切り離し、句の解釈は句の言葉だけでするべきだ。だから以下は句の解釈ではなく、単に父がなつかしいから想像するだけだが、父が「友よ」という言葉を使った時、そういう長い年月の孤立に耐える同志のようなことが念頭にあっただろうと思う。

※ごちゃごちゃ書いたが、父のこの句の「友よ」は、私のへたくそな歌が影響しているかもしれないという、ただそれだけが言いたくてこれを書いた。

posted by tyouseki at 16:45| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

友よ我は片腕すでに鬼となりぬ 鑑賞

(この鑑賞を前のブログに書いたのは2005年2月です。今もそんなに考えはかわっていないので、そのまま転載します。)

 意味は読んだ通り。興味深いのは言葉のシチュエーションの取り合わせだ。全体は重々しい口調だが、「友よ」は若者のような連帯感を呼び起こす。全体が苦ければ苦いほど、その一滴の救いが生きてくる。そういう構造の句だと思う。
 苦いといえば父の句はほとんど句全体の緊張が強くて苦いが、この句は特にそれがポイントだと思う。なぜかといえば、友への報告内容が「片腕がすでに鬼になった」というずいぶん特殊なことで、さあどういうことだと思うかと挑戦的なまでに、徹底的な苦みをつきつけてくるからだ。「友よ」とその他の部分のギャップを読み手がどう受け取るかが読みのポイントになるぞと言っている気がするのだ。
 「友よ」というフレーズは、流行歌にもあったが、純粋な気持ちなどを分かち合う同志への呼びかけを思わせる。
 しかしこの句の雰囲気は、現在理想を同じくする同志がそばにいるという甘さは許容しない。過去に純粋な時間を共有し、いまは遠くにいて、消息不明な友など、直接的には語りかけられない者だろうか。現状の辛さに耐えるために、マッチ売りの少女が小さな炎のなかに見たおばあちゃんみたいなものかもしれない。
 いやいやもっと苦みを味わおう。思いを共有できる誰かには、会ったこともないかもしれない。この信念はそれほどに孤立しているかもしれない。「友よ」と、信念を共有するものがあると想定して、心に秘めた自己の信念に対して呼びかけているのではないか。
 この人は身を犠牲にして何かに取り組んでいるが、それは瞬間的な努力で実現することでなく、身体がだんだん鬼になってしまうような長い年月を要することのようだ。また、その犠牲も、単に健康を損なうのでなく、何らかの理想を抱きながら、「鬼」という悪いものに変貌してしまうことらしい。
 この点は、たとえば「神」のような善のものにならねばならないのに、意に反して鬼になってしまって挫折した、という解釈もできるのだが、私は、いわば理想を貫く副作用として鬼に変貌しつつ、まだがんばっているよ、という報告として解釈したい。
 徹底的に苦いということを念頭におくなら、挫折の報告をする苦みよりも、絶望的な状況でもあきらめないで耐えているほうが苦い。身体を砕かれる拷問か修行みたいなものに、孤立無援で耐えているような感じとさえ思えてくる。
 
 私の解釈のポイントは、この句が徹底的に苦い句になることをめざしていて、苦ければ苦いほど「友よ」という呼びかけのかすかな甘さの味わいが出る、ということだ。
 これは私の解釈であって、正解のひとつだとは思うが、唯一絶対の正解というものではない。
(句に絶対の正解がないことについては、戸田市の「重信展」の図録に寄せた「父の俳句」に詳しく書いたので、もしよかったら参照していただきたい。)


posted by tyouseki at 16:40| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

重信テキスト等の置き場所

重信関係のテキストや色紙画像が本体HPにあります。

重信テキストはまだ少ないのですが、妹美知子が書いた兄の想い出、私が書いたエッセイなどもあります。

色紙は、私と美知子が持っているものをすべて画像でUPしました。

また、全句集は沖積舎より刊行された立派なものがあります。

安価で手に入れられる全句集としては、門川学芸出版から出ている「高柳重信読本」もあります。

ただ、私は、父の文章が好きです。かっこいいです。
受験生のときにもらった句集もまあ気にいって、書きうつしたりしましたが、
そのあと出た評論集にもっと感動しました。
俳句の事をしらない私にも、すごく面白くて、どう展開するのかわくわくして、評論ってスゴイものなんだと思いました。

私もこういうのを書けるようになりたい、なれるだろうか。でもパパに勝てるわけないよなあ、なんて思いました。(笑)
posted by tyouseki at 16:25| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「倭國」pdfもアップしました

「倭國」は『海山集』の中にある一連。

「倭國」といえば、代々木上原にあった家の玄関に色紙があった句、
魏(ぎ)は
はるかにて
持衰(ぢさゐ)を殺(ころ)す
旅(たび)いくつ

を含んでいます。

「持衰」って何って父に聞いたっけ。
祈祷師だそうです。

当時の文明国「魏」をめざしてわたる海が荒れるたび、
祈祷師がお祈りをしたのですが、お祈りの効果がないと
祈祷師が殺されていけにえになった、と父から聞きました。

「倭國」pdpはこちら
http://www.h4.dion.ne.jp/~fuuhp/jyusin/yjuusin%20wakoku.pdf

「魏」の句の色紙はこちら
http://www.h4.dion.ne.jp/~fuuhp/jyusin/sikisi/sikisi1-2.htm

「魏」の句の鑑賞を含む私のエッセイはこちら
「父の俳句」http://www.h4.dion.ne.jp/~fuuhp/essay/titinohaiku.html
「月光旅館」http://www.h4.dion.ne.jp/~fuuhp/essay/gekkouryokan.htm

posted by tyouseki at 16:19| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

本体HPの重信コーナーに「飛騨」10句のpdf

本体HPの重信コーナーに、「飛騨」10句をpdfでアップしてあります。

多行総ルビ句はupできないものとあきらめていたのですが、
pdfならできるじゃないか! と、いまになって気づきました。(遅い!)

私の個人的な感覚ですが、父の若い頃の句は、「私の知っている父と違う」と感じます。
若者くさくて違和感があります。
(だって私はあと2年で父が亡くなった年齢に到達してしまうかんです。)

第一句集『蕗子』に注目が集まるのは当然ですが、全集などを読むとき、うしろのほうの『山海集』や『日本海軍』まで目がいかない人がいるのではないでしょうか。

絶対、後期の句のほうがかっこいいです。

特に、『山海集』のなかの「飛騨」はすごいと思います。これを読んだとき、ほんとに
「パパかっこいー」と思いました。
posted by tyouseki at 16:16| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

火曜印刷4 末弟年雄との日々

もう少し年雄さんにふれておこう。

10歳ほども年の離れた弟を、重信はたいそうかわいがっていた。

年雄さんが学校にあがる前、上の二人の兄弟(行雄、美知子)が学校に行ってしまい淋しかった年雄さんは、よく父の部屋に行って遊んでもらったという。
(父も学生だったはずだが、さぼっていたのだろうか。しばしば朴歯下駄をはいた友人が来ていたそうだ。)

父の部屋は二階で八畳間。そこにはボール紙で作った軍艦がいっぱいあって、海のようだった。
その軍艦をつかって、たとえば「ジェットランド海戦」を再現し、何時何分にはこういう作戦でこういう陣形、などと、並べ替えて遊んでいたという。
軍艦はすべて父が手作りしたもので、すごく精密なものだった。

中学時代に年雄さんは絵の勉強をはじめたが、その師匠は父が見つけてきた。
「群」を発行するとき、当時はGHQの許可を得る必要があり、その申請の際に知り合った彫刻家だった。その人は寺内万次郎のお弟子さんだったそうだ。

やがて年雄さんは学校を退学し、画集などを見に池袋の西口にあった露店の古本屋に通っていた。
そこでよく会うおじさんと知り合いになった。おじさんは、蔵書を売っては、その代金で別の本を買っていくことをくりかえしているようだった。

年雄さんはそのおじさんと仲良くなって(かわいがられて?)毎週火曜日に会う約束をした。

あるとき、おじさんは北園克衛のすばらしさを語り、これをぜひ読みなさいと、詩集『白のアルバム』をくれた。
「北園克衛は絵描きでもあるんだよ。詩も小道具を目の前にして書くんだよ。」
と教えてくれたという。

おじさんが帰ったあとで、古書店の人が言った。
「兄ちゃん、あの人ね、ああ見えて偉い詩人なんだってよ。春山行夫っていうんだ。」

父が『蕗子』を年雄さんといっしょに印刷したのは、単に兄弟だから頼みやすかっただけではない。年雄さんがそれにふさわしかったからなのである。

父は、長男として高柳家のなかでとても頼りにされていたそうだが、兄弟に慕われる兄でもあった。
次男行雄は、俺は将棋では兄貴より強かったんだと今でも懐かしく語る。(父は将棋が強かったらしい。群馬に住むいとこと風呂のなかで、盤をおかずに将棋をしたという。)
妹の美知子は、胸ときめかせて兄重信の蔵書を盗み読み、友人たちとの会話を盗み聞いていたという。
そして末弟年雄は、父が一番若いころのお弟子さんだったのかもしれない。

※火曜印刷については、また、思いだしたことがあったら書き足します。


posted by tyouseki at 16:02| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

火曜印刷3 末弟年雄の協力

私が生まれる前のこと、原始的な印刷機とはいえ、印刷という手段を得た父は、『蕗子』など句集を作るようになった。

このとき、父を手伝ったのが父の末弟の年雄である。
年雄さん(私から見ると叔父)は、父と10歳ほど年が離れていたが、幼いときからたいそう仲が良かったという。

ここからは、年雄さんに聞いた話。

父が『蕗子』を作ったときは、年雄さんが大いに協力したという。
ふたりで向かい合って、ここの字配りはこうしたらいい、といったことを相談した。
たとえば、船長の句は一行あいているが、あれは厳密には一行ではないのだそうだ。
ハガキ一枚の厚さ単位で、このぐらいか、もうちょっとかと、空白行の行間を調整した。

句は父が作り、改行するということも父が決めたが、
字配りには年雄さんの意見が反映されていて、見た目については合作に近いところもあるのである。

年雄さんは当時旧制中学を中途退学して、絵の勉強をしていた。
(その絵の師匠を見つけたのは父だそうだ。)

だからなのか、一ページを一枚の絵のように考えて、見た目のバランスにこだわって意見を言ったという。

『蕗子』には●とか○とかの記号がならんでいる句がある。
あれは、もともとああいう字配りの句があったのだ。
その試し刷りの段階で、普通ならば活字を逆にして下駄の歯のあとのようなもので刷ってみるのだが、年雄さんがいたずらして、記号を並べて刷って見せたところ、父がそれを気にいって、そのまま採用した。
だから、もとの句はあれのおかげで句集に載らなかったそうだ。


posted by tyouseki at 15:49| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

火曜印刷2

火曜印刷は祖父一良(いちろう)が作った印刷工場である。
祖父は病身の長男重信を溺愛していて、印刷業も重信のためにはじめたと聞いたことがある。
息子が熱心に雑誌などを作っているのを意識し、趣味を兼ねて病身でもできる仕事をと思ったのか。

初めは、本当に簡単な印刷機が一台だけだったという。父はその印刷機で自分の『蕗子』や塚本邦雄の『水葬物語』などを作った。

その写真がないのが残念だ。テフートというものらしい。
私が記憶する工場では、もう使われていなかった。それはすみっこのトイレのそばに置いてあった。
(そのトイレの落書きは今も覚えている。
「上を見よ」→「左を見よ」→「右を見よ」→「何をきょろきょろしている」
これを書いたのは誰だろう。工員さんだろうか。まさか父ではあるまいが。)

祖父は建築士のようなことをしていて、国会議事堂の建設に関わったと伝え聞いているが、そこそこ商売上手でもあったらしい。
やがて、火曜印刷は当初の小さな建物を増築して、従業員を数人雇って稼働するようになった。私が記憶しているのは、その軌道に乗ったあとのことだ。

祖父は新しいものが好きで、車やテレビなど、ご近所では一番に購入した。
この車は当時、けっこうかっこ良かったらしい。

当時、火曜印刷には工員さんが10人ぐらいいたはずである。
なぜなら、野球チームを作っていたからだ。そして、楠本健吉さんのチームと試合をしたという。監督はもちろん重信であった。

kurumaatsukofukiko.jpg


posted by tyouseki at 15:47| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

火曜印刷1

数日前、懐かしい人から電話。寺田さんだ。
火曜印刷の話になった。回想録を書けたら、みたいな話になった。

それで古いアルバムをひっぱり出してみた。火曜印刷の写真でも見つかれば、と思ったのだ。

結局私は持っていなかった。叔父(重信の弟)に聞いてみたら、ものすごく古い写真がみつかった。

kayouinsatu.jpg

これは私が生まれるより前のものだ。
(中心の人物は親戚の女性。)
当初は左側部分だけの小さな工場だったそうだ。のちに右側部分を増築して、もとの左側部分は人が住めるように改築した。

私が生まれ育ったのは、この左側部分である。
この写真はひどく殺風景だが、私の記憶のなかにあるのは、花々に囲まれた家である。
窓を開けると、薔薇の生垣をはじめ、母(あつ子)が植えた花壇と、カエルと金魚がいる小さな池が目に入る。

fukiikemini1.jpg

そして、窓のすぐ下にはタロウというマルチイズがいて、この犬は私の兄貴のような忠犬だった。
庭の向こうには空き地が広がり、そこにもチロという犬がいた。

私たちの住む部屋は一枚の戸を隔てて印刷工場だった。そこに降り立つと、活字の棚が何列もあり、おびただしい活字が行儀よく詰まっていた。
工場の中を、私は三輪車をこいでまわった。
当時、外はでこぼこ道ばかりで、板張りの工場の床は三輪車の散歩にもってこいだったから。



posted by tyouseki at 15:41| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

重信関係のブログ「密航船」をこっちへ統合

頭のちらかりようがホームページに反映し、ブログや掲示板がばらばらに分かれていたので、
できるだけこのブログに統合することにしました。

重信関係のブログ「密航船」は、リンクなどされていた方には申し訳ないのですが、こっちに移行します。

古い記事は整理してまとめ、新しい記事は、こちらに再アップします。


posted by tyouseki at 15:24| 密航船(重信関係情報) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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